会戦日:1861年7月21日 (注:「第一次マナサスの戦い」は、北部では一般に「第一次ブルランの戦い」とも呼ばれる。)
1.会戦の背景
     一八六一年二月、ジェファーソン・デービス(以下、J・デービス)が南部連合の大統領に選出されると、南部各地では連邦脱退の動きは一段と強まり、その動きは連邦の兵器工廠・要塞・港湾の占領という形となって現れた。
     四月、サウスカロライナのチャールストン湾のサムター要塞に立てこもった連邦軍を、南部連合樹立に熱狂する市民及び民兵団が砲撃を加えたことから、大統領A・リンカンは七万五千人の志願兵を募るとともに、連邦の威令の及ばない地域の占領と反乱軍の鎮圧を呼びかけた。
     このことは南部の姿勢を硬化させ、ヴァージニア・アーカンソー・テネシー・ノースカロライナ四州の脱退を招き、なかでもヴァージニア州は首都ワシントンと近接していることから戦略的要地と見なされ、J・デービス大統領は南部連合の首都を州都リッチモンドとする旨を声明、自ら同州における南部軍の創設と予期される会戦への督戦に赴くこととした。
     ワシントンでは北部軍が次第に終結、七月二十日に予定されている南部連合議会がリッチモンドで開催される前に、同地へ進撃し占領せよという声が次第に高まった。


2.戦略的見地に見るマナサスの重要性
      マナサスの地は、ヴァージニア州を縦断するアレクサンドリア・オレンジ鉄道に北西からマナサス地峡線が乗り入れる鉄道の結節点にあたる。双方にとって兵站線の要地であり、マナサス地峡線を通じてシェナンドア渓谷に兵を送り込むことができる。シェナンドア渓谷は南北に走るブルーマウンテン山脈によって平地から遮断された特異な空間をなしていて、ここを進軍する兵団は敵の動きを悟られず、いきなり相手の首都の背後に出られる。
     連邦軍を離脱したロバート・E・リーを含むヴァージニア州軍将校団は、きたるべき北軍の侵攻に備えるため、その重要性に着目し同駅を確保することをJ・デービスに進言、駅の北側をほぼ東西に流れるブルラン川南岸に陣取り、敵の砲部隊・幌馬車の移動を食いとめる作戦を立案した。


3.会戦前夜における軍部隊の移動
      南軍はいち早く行動、晩春には前大統領候補P・G・T・ボウリガードを将として二万二千人を配兵、シェナンドア渓谷には連邦軍兵器工廠のハーパース・フェリーへ進軍を予定する部隊として、J・ジョンストンを将とする一万二千人を送りこんだ。
     南軍の動きと読みは、前海軍大臣で大統領最高軍事顧問のウィンフィールド・スコットも察するところであり、スコットはシェナンドア渓谷で陽動しながら、正面進撃の作戦をたてた。そして、勝利を確信するA・リンカンはスコットの進言をいれ、紛争の早期決着を叫ぶ世論に応える形で七月初旬、パターソン率いる北軍をハーパースフェリーからウィンチェスターへ進撃させてJ・ジョンストン軍を引きつける一方、I・マクダウェルを北軍司令官に任命、三万五千人によるリッチモンドへの進軍を下令した。
     しかし、戦意に劣るパターソンは十分にJ・ジョンストン軍を攻撃せず、ウィンチェスターに止まり示威活動をするのみであり、その底意をさとったJ・ジョンストンは、I・マクダウェルの進軍にあわせて敵を出しぬき、マナサスを守るボウリガード軍との鉄道による共同作戦を考えた。
     七月十八日、マクダウェル軍先鋒部隊のリチャードソン兵団が、マナサス駅への最短距離にあたるブラックバーンズ渡し場で南軍のロングストリート部隊と衝突、反撃されて撤退する事件が起きた。
     このことでJ・ジョンストンは、敵進撃の間近に迫っていることを感得、十九日と二十日、全部隊をシェナンドア渓谷からマナサスへと急行させた。北軍は、この動きを全く偵知できなかった。


4.両軍による作戦の推移
      J・ジョンストン軍が合流し、またリッチモンドからも新規の兵配備をうけて三万人を超える兵団を持ったP・G・T・ボウリガードは、北軍正面部隊を撃砕してワシントンへ進撃することを企図、敵左翼を弱体と判断して衝く作戦を立てていた。
     一方、北軍司令官マクダウェルは、ブルラン川の渡渉可能地点は全て南軍により配兵されていることに鑑み、主力を迂回させて敵の左翼を衝く奇襲作戦を企図、二一日未明、一万三千人をもってワレントン街道を進ませた。タイラー師団にはそのまま正面攻撃、ハンター、ヘインツェルマンの二個師団は途中から道を折れてスドレーの渡し場へ向かった。両軍とも敵の最左翼を衝く作戦であった。
     攻撃は、ボウリガードが進撃命令を下す前に、北軍のタイラー師団による砲撃から始まった。しかし、対面する南軍の旅団長エヴァンスは、タイラーの攻撃が本格的ではなく、何かの陽動であることをいち早く察知、味方の左翼に斥候を派遣して北軍の移動の偵知に務めた。
     迂回路を進むハンター、ヘインツェルマンの二個師団は、悪路と道不案内のため、未明に戦場に到達できず、タイラーの攻撃が始まっている段階でも、まだ先鋒部隊すらスドレーの渡し場に到達していなかった。よって、カンカン照りの日中を埃を舞い上げ進む形となり、エヴァンスの斥候による手旗信号で北軍の動きは全く悟られてしまった。
     エヴァンスは、北からの敵進撃に備えるため、自部隊と支援部隊の主力を「マシューの丘」に配兵、彼の通報で左翼の守りの薄さと北軍の動きを知った南軍は、素早くブルラン川の下流から部隊を移動させていった。


5.戦闘の推移
      北軍の移動に不審を抱いていたのはエヴァンスばかりではなく、ヴァージニア州人からなる五個連隊を率いるレキシントン兵学校の元教導、トーマス・ジャクソンも同じであった。彼は独断で早くから麾下部隊の左翼への移動を命令、午前十一時半頃には前衛隊が「ヘンリーの丘」に到着をしていた。
     その頃、「ヘンリーの丘」に北面して対する「マシューの丘」では南軍が総崩れになりつつあり、アラバマ第四連隊を率いるB・E・ビイは、「ヘンリーの丘」へ退いてジャクソン軍の布陣を知った。彼は「見よ、ジャクソンがおる。石の壁のように立っているぞ」と叫び、残兵を率いて銃剣突撃に移っていった。銃弾に撃ち抜かれた彼はまもなく死に、ジャクソンはその後、ストーンウォール(石の壁)と仇名される。
     正午過ぎには「ヘンリーの丘」の南軍は三千人ほどになり、対面する北軍も進撃は容易でなくなっていたが、ここで北軍司令官マクダウェルは実戦経験のなさを露呈する失敗をやった。その第一が「戦力の逐次投入」であり、南軍に戦闘をしながら布陣する余裕を与え、かつ前線から破れて大量に逃れる兵が、戦闘未経験の後続部隊に異常な不安を与えてしまった。その第二が砲兵に歩兵の援護を付けなかったため、三時頃から本格化した近接砲撃戦で南軍狙撃兵の襲来に会い、十門以上が南軍に奪われた。
     四時になると、南軍部隊は左翼に大きく広がり、次第に崩壊しつつある北軍の前線に圧力を加えはじめ、五時には総崩れで逃れる北軍兵への追撃戦へ移っていった。
     しかし、南軍の足並みは乱れ、大量の捕虜と遺棄された物資は、北軍への先回りを不可能にさせた。最左翼に位置していたJEBステゥアートの騎兵部隊の場合、追撃の過程で大量の捕虜が出たので進撃が不可能になった。全部隊で北軍の遺棄物資の私略(開戦当初、戦費は各部隊長の自弁だったので、やむをえない面がある)が始まっていた。
     南軍右翼が北軍の後方拠点センタービルへ進撃して略取し、左翼の追撃が成功していたら、北軍部隊は原野で散り散りになり壊滅していたかもしれないが、南軍の痛手も大きく、七時、夕闇が迫るなかで戦闘停止命令が各部隊に通告された。


6.バランスシート
戦    死 負     傷 行方不明
南   軍 387人 1582人 不明
北   軍 最低460人 1312人 1124人
(注:北軍の行方不明者は、大半が現場で斃したか捕虜になったものと考えられている)


7.戦闘を振り返って 
    両軍とも戦闘未経験な兵を用いての戦いであったが、そのことが、特に北軍側にマイナスに作用した。
     まず、マクダウェル自身に全く前線勤務の経験がなく、不慣れな土地で地図もろくになく、偵察と斥候に多くの時間を浪費して南軍に兵力移動と準備の時間を与えてしまった。
     新参兵を奇襲に使うのは無理があっただけでなく、なぜ行軍に際して本来なら迂回部隊を先にしなければならないのに、タイラー軍を先にワレントン街道を進ませたのか、後代の失笑を買っている。それで後続部隊がつっかえてしまい、二時間以上を浪費しているのである。
     パターソンがジョンストン軍を攻撃しなかったことは、全くの誤算かつ失策。マクダウェルは進軍に際して敵が合流しているとはつゆ思わないでいた。
     あとから考えてのことだが、A・リンカン自身も戦争を過小評価していた。リンカンは七万五千人の募兵に際して三ヶ月の期限付きとしたが、ウィンフィールド・スコットは戦争の苛烈なるのを予想して、三年間三十万人の募兵を提案し議会から否決されている。
     マナサス戦に勝利したことで、南部連合はいきおいづき、北部はワシントンそのものが危機に晒されることになった。

 


8.時系列表
2月 ジェファーソン・デイビス大統領になる
4月 Chaleston湾でサムター要塞が砲撃さる。ボウリガード、マナサス駅付近に軍を終結。
7月16日 McDowell軍、Washingtonを進発。
7月18日 McDowell軍、Fairfax公館より進軍開始。Blackburn渡し場の戦い。北軍、ロングストリート指揮の南軍の反撃に会いマナサス駅へ進軍できず。シェナンドア渓谷に駐屯するJohnston指揮の南軍、マナサスへ向け本格移動。
7月19日 南軍先遣隊であるJackson軍団の第一旅団、マナサス駅に到着
7月20日 Johnston指揮の南軍、終日移動。北軍は地形調査・斥候による偵察行動で時間を食う。
7月21日
未明 北軍Centrevilleから進軍開始。13000人(部隊の半数)を南軍左翼攻撃のため迂回させる。
午前6時 Warrenton街道を進むTyler隊から砲撃開始。
午前9時 石橋を守る南軍Evans隊、北軍の迂回攻撃を斥候からの手旗信号で察知。
午前10時から
11時半
マシューの丘の戦い。Sherman隊とKeyes隊、ブルラン川を越えマシューの丘へ向かう。南軍、次第に後退。
午前11時半頃 ジャクソンの部隊の先陣、ヘンリーの丘に達する。
正午半 ジョンストン将軍とボウリガード将軍、ヘンリーの丘を視察。ジャクソンのヴァジニア部隊五旅団、ヘンリーの丘に陣取る。北軍、やや進軍スピードが衰え、南軍に準備の時間を与える
午後3時頃 ヘンリーの丘の南軍は3千人に達する。双方で近接砲撃戦。
午後4時頃 ブルラン川下流を守っていた南軍部隊、いっせいに戦線に到着、北軍の左翼陣に襲いかかる。
午後5時 北軍いっせいに算を乱して退却。
午後7時 夕闇迫り、南軍も被害多く足並みの乱れから追撃断念。
















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