会戦日 1862年9月17日
1.会戦の背景

その1 半島戦役後の状況推移

     半島戦役の後、リッチモンド攻略という初期目的を果たせず、大兵力を擁しながら段階的に地歩を固めてゆくばかりで、機略に富んだ南軍の作戦に足元をすくわれたと考える大統領リンカンは、マクレランをポトマック軍司令官から解任してJ.ポウプを後任に据えた。
     しかし、ヴァージニア半島に駐屯するポトマック軍主力部隊の行動が緩慢とみた北ヴァージニア軍司令官ロバート・E・リーは、新たな補充兵を得るとフレデリクスバーグ及びワシントンの前面に展開する北軍の討伐を企図して北上、シダーマウンテンの戦いに勝利し、更に第2次マナサスの戦いで、敵の半数の兵力ながら倍の損害を与える大勝利を収める。
     戦意を失い前線から逃げ帰った兵で充満する首都ワシントンは、南方わずか27マイルの地点に勝ち誇る5万5千人の敵兵がいる事情に、第一次マナサスの戦いの場合以上に混乱した。
     しかし、戦いに勝利した南軍側も、行軍と戦闘の連続に疲労の色濃く、更に武器・弾薬は不足し、食料・衣服・軍靴まで不足する貧弱な装備のまま、鉄壁のごとき要塞の連絡網のなかに守られている首都ワシントンへ侵入することはできないでいた。
     司令官リーは、シェナンドア渓谷を通じる軍糧確保、ボルティモア&オハイオ鉄道の切断による首都ワシントンと北西部州との連絡遮断、更にはボストン方面との遮断のためペンシルヴァニア州への部隊展開を策し、麾下兵団を率いて更に北上、9月4日、ワシントンの北西32マイル地点のリースバーグからポトマック川を渡渉した。
     軍事的に切迫するワシントン政府は、首都防衛に当っていたマクレランを呼び、再びポトマック軍の立て直しと北ヴァージニア軍の撃滅を要請、35個連隊の新たな補充を受けたマクレランの部隊は、わずか数日で8万人を超える大軍になり司令官リーの後を追った。

その2 北ヴァージニア軍の状況とリーの作戦意図

     このときの北部州侵入の作戦意図については、リーが明確に書いたものを残していないので、上述の状況は後年の推測に止まっている。また、その意図が明確になる前に偶発的事件があり、それが即、「血染めの一日」と呼ばれるアンティータムの会戦につながってしまった。
     第2次マナサス戦ののち、食料と被服、とくに軍靴の不足は司令官リーを悩ませ、相当数の脱走兵を生じていた。このときの北ヴァージニア軍の行軍を目撃したマリーランドの住民の多くは、相当数の兵が裸足で、汚れたぼろの軍服を身にまとい、痩せて目もくぼんでいることに強い衝撃を受けたと書き記し、リー自身、「本軍は敵地に侵入できるようには充分に装備されていない」と述べている。
     しかし、なぜ侵入をしたかは、その後の部隊行動から明確な推測ができる。
     まずフレデリク(Frederick)に駐屯すると、主力部隊であるロングストリート兵団をヘイジャースタウン(Hagerstown)に向かわせ、D.H.ヒル師団をジャクソン兵団から引き抜いてロングストリートの行軍列の後衛に当らせた。
     これは、カンバーランド渓谷沿いにサスケハナ川まで向かう序曲とみられ、もし川沿いの要地を占領すれば首都ワシントンを他の北部州の領土から孤立させることができる。しかも途中の行軍の様子は、渓谷の東に南北方向に伸びるサウスマウンテン山脈に遮蔽され、北軍側には索敵が困難である。なお、この行軍ルートは翌年6月、リー司令官がゲティスバーグ戦に向かう際にも取られている。
     次にジャクソン兵団にハーパースフェリー(Harpers Ferrry)の占領を命じ、ロングストリートの兵団からマックロウ師団を引き抜いて支援に送った。
     フレデリクからみて、ヘイジャースタウンとハーパースフェリーは全く逆方向であり、ジャクソン兵団はハーパースフェリーの占領後、直ちに北上して主力部隊に追いつくよう指示されていた。
     ハーパースフェリーは合衆国連邦の兵器工廠であり武器庫なので、そこを襲って必要な物資を確保したうえに、さらにカンバーランド渓谷に作戦する際、南方のシェナンドア渓谷との連絡を確保しようということは明白である。シェナンドア渓谷は、当事も今も豊かな食糧生産地であって、ハーパースフェリーの北軍守備隊さえ撃破すれば、鉄道を通じてリッチモンドとの武器・兵員の輸送も可能になる。
     10日、北ヴァージニア軍はフレデリクを進発した。その際、司令官リーはD.H.ヒルに対し荷馬車を先頭にたて、戦闘部隊を後ろにするよう特に指示はしたが、サウスマウンテン山脈を越える際に特に大きな後方守備隊は残さず、若干の監視兵を配置しただけであった。
     これは一時的にもせよ崩壊した北軍が容易には立ち直れないだろうと、なめきっていたことを示している。しかも、敵将がマクレランであれば、その進撃は遅く速攻もないだろう、ジャクソンが12日中にハーパースフェリーを陥落させて進軍開始をすれば、ペンシルバニアに作戦してワシントン周辺の北軍部隊を次第に弱らせ、軍事的成功によって英仏からの和平提案も期待できる、というものであったに違いない。

その3 思わぬ事件の余波

     巨大な作戦も実に些細な齟齬から崩れることがある。
     南軍の進発に遅れること二日、北軍は12日にフレデリクに進駐し、マクレランも愛馬「ダニエル・ウェブスター」にまたがり、いつものように多くの幕僚を周囲に従わせて兵営に入った。その際、北軍兵の一人が草の間に白く厚い封筒が落ちているのを見つけ、なかを調べると3本の煙草をはさむような格好で1枚の紙切れが出てきた。
     「特別命令191号」、リー司令官が9月9日付でD.H.ヒルに当てた作戦命令書であり、筆記者としてR.H.Chilton大佐の署名があることから信憑性に疑いないものとされた。マクレランは命令書発見の翌日の13日にこの報告を受け、大統領リンカンに敵の作戦意図として説明を申し送っている。
     この命令書には、ジャクソン軍が別働隊としてハーパースフェリーに作戦するということ、ロングストリート軍がヘイジャースタウンに向かうので、貴下D.H.ヒルは後衛を務めよということが書いてあった。
     敵の軍隊が二つに割れている! もしこのとき、マクレランが大兵力をもって、カンバーランド渓谷につながる三つの峠道に配置された南軍監視兵を一挙に飲み込む形で進撃し、分割された北ヴァージニア軍の間に割って入っていれば、ロングストリート率いる主力部隊も、ジャクソンとは別方面からハーパースフェリーに向かったマックロウ師団も、ただちに行き場を失い、結果として木っ端微塵に粉砕されたであろう。
     ところが、マクレランは13日の午後を、何するでもなく空費してしまった。なおも行く手に罠を仕掛けられていると思ったか、諸方面に斥候を放ち、ワシントンには援軍を要請し、南軍の数を12万人と過大に評価し、翌14日早朝から暗がりを手探りで進むかのように漸々に軍を進めたのである。この18時間の進軍の遅れは、リー司令官をしてポトマック軍に乾坤一擲の戦いを挑ませる機会を、結果的に与えてしまったといえる。
     作戦企図が暴露したという報告は、北軍内にもぐりこんでいる密偵から、リー司令官のもとに直ちに知らされた。
     こうなってくると、陽動や奇襲によって軍事行動の主導権を握るどころか、北ヴァージニア軍自身の存在が危うくなる。リーはすばやくD.H.ヒル師団に反転させ、サウスマウンテン山脈を通る三つの峠道のうち、ターナー峠とフォックス峠を塞がせ、マックロウ師団の一部にも反転をさせ、残るクランプトン峠を塞がせた。
     二つに分割している兵団も一つにして、敵地から撤退もしなければならない。急きょロングストリートには反転を命じ、14日の午後8時、ハーパースフェリーに作戦しているマックロウには作戦中止を申し送った。

      「本日、我が事は去った。我が軍はシャープスバーグから渡渉する。貴下は本日夜、現在の布陣を捨てねばならない。斥候を派遣しポトマック川の渡河点を探らせよ。もし貴軍とシェパーズタウン(Sheperdstown)の間に適当な渡河点が見つかれば、シェパーズタウンは当軍の渡渉のために残しておかれたい」 

     ジャクソンには、シェパーズタウンで主力部隊が渡渉する間の殿軍を務めるよう指令した。ところが、ジャクソンからは、ハーパースフェリーは間もなく落ちるという知らせがきた。もし、この14日を3つの峠で支えることがでできれば、二つの軍団はひとつになり、有利な条件で北軍に相対峙できるという考えがリー司令官の脳裏に浮かんだ。
     しかし、この14日の夕刻、三つの峠とも北軍の通過を許していた。また、ハーパースフェリーは、なおも落ちていなかった。


2.進む部隊集結
     翌15日の朝が白々と明けて行く。
     この頃、主力部隊であるロングストリート兵団はヘイジャースタウンから反転して一路南下、シャープスバーグを通過してポトマック川をシェパーズタウン付近で渡渉するべく強行軍を重ねていた。
     ハーパースフェリーが三つの丘からの砲撃に晒され、守備隊長のD・マイルス大佐が重傷を負い(のち死亡)降伏をしたのは15日の早朝であった。この結果、南軍は北軍兵1万1千人を捕虜にし、砲70門、銃1万3千丁、荷馬車200台のほか、大量の弾薬・食糧・被服類を手にした。ジャクソンはA.P.ヒル師団を捕虜釈放の手続きと占領後の整理、軍糧運搬のために残し、自身は残りの師団全部を率いてポトマック川の南岸沿いにシェパーズタウンへ向かい、そこから渡渉してシャープスバーグに入った。
     そこで出会ったロングストリートは、踏みとどまって戦うことに反対であったが、周辺を一巡りして戻ってきたジャクソンは、リー司令官に対し「良い地形だから戦いましょう」と進言をした。
     リー司令官もハーパースフェリーを陥落させた今、ロングストリートとジャクソンの二大部隊は大量の武器を手にして合流している、また東に広がる開墾地を控え、丘の上から有利な条件で戦えるうえに、いざとなればポトマック川を渡渉して後方に退却できることを考慮し、次々に街道伝いに町中に入ってくる部隊に対して周辺の守備につくよう指示を下した。
     シャープスバーグの戦い、南軍の配置からみて東の開墾地の向こうにアンティータム川が流れていることからアンティータムの戦いとも言われる会戦はこうして始まった。
     サウスマウンテンの三つの峠での北軍の死傷2300人、南軍の死傷3200人。リー将軍としては、ペンシルヴァニア侵入という当初の目的は不慮の事件から達せられなかったが、マクレランは機密情報入手による絶好の好機を逃し、南軍側は3千人余の犠牲で部隊集結に必要なわずか数時間の時間稼ぎに成功したといえる。


3.陣形配置
     予定戦場の地形と配置は、おおむね次のようなものであった。
     シャープスバーグの一帯は、なだらかな丘陵がうねりを重ね、東側に平坦な開墾地が開けているため、丘の上からの防御戦には都合がよく、しかも、丘のところどころには岩石の突起が連続しているため、その背後に兵を隠しやすい。
     アンティータム川とポトマック川は、ほぼ平行的に南に向かって流れているが、町外れの最南端のところで両河川は交わり、その手前に忽然と隆起したような丘があって、敵が対岸から攻撃するには、アンティータム川を挟んでただ一本の橋を渡らねばならない。
     また、敵が橋に辿りつくまでにも、川沿いの丘を駆け下る長い時間、味方からの射撃に晒すことができる。ここにはウォーカー師団を配置し、更にR.A.テゥームズ(ジョージア州の有力政治家。ディビスと南部連合大統領の座を争って破れた男)がD.R.Jones師団の一支隊を率いて立てこもった。
     町の北端のポトマック川が著しく湾曲した場所には、ニコデマス(Nicodemus)の丘があり、そこから東へは広い景観が開けている。眼下には東の森、北の森、西の森とよばれる三つの森があり、その周囲には畑が開墾されていて見晴らしがいい。この丘にはJEBステゥアートが山砲多数を据えて砲撃を指揮する。
     西の森の少し南にはダンカー教会と呼ばれる、白塗りの瀟洒な風情の教会があり、その南には、町一帯を覆う畑に向かって、荷馬車道が方形を描いて突出していた。この荷馬車道は轍と雨による浸食により天然の塹壕を作っていて、前面の畑を突貫してくる敵への防御に有利と考えられ、D.H.ヒル師団の兵が窪みのなかに密集して待機した。
     町の中央を東西に横切るブーンズボロ街道への押さえが、敵の突撃に対して特に遮蔽するものもなく、後方への退却路に当るシェッパーズタウンの渡渉点まで一直線に伸びているので心配であった。ここは前方にエバンズの旅団、後方にD.R.Jones師団、更に後方にマックロウ師団、アンダーソン師団を置き、味方の布陣を重層構造にした。
     この街道を境にして、最左翼になる北側にジャクソン兵団、中央から左翼を塞ぐ形でロングストリート兵団が配置された。Nicodemusの丘からポトマック川とアンティータム川の合流点まで、ほぼ半円形を描く陣配置であり、中央から右翼となる突起した丘までの間が、やや配置が手薄で空いているが、アンテータム川を渡渉しての突撃は難しく、砲門の援護のない歩兵だけの突撃は味方の移動で対処できるものと踏んだ。
     リー司令官の戦闘指揮所は、東西方向のブーンズボロ街道が南北方向のシェパーズタウン街道が町中で交わる付近、半円形陣の中心付近に位置していた。
     16日、アンティータム川を挟む対岸の丘に北軍部隊が続々と現れ、20ポンドパロット砲多数を南北に配置して砲撃を加えてきた。
     北軍は北からJ.フッカーの第1軍団、そのやや後方にマンスフィールドの第12軍団、中央にサムナーの第2軍団、ブーンズボロ街道付近にプレソントンの騎兵旅団、その南にポーターの第5軍団、最左翼にあたる下流の橋を挟んでバーンサイドの第9旅団が配置され、後方から更にフランクリンの第6軍団が進軍していた。
     北軍の総勢は8万5千人、1軍団あたり1万人余、南軍は正確な数は不明なものの、脱走兵多数が出たことで4万5千人程度と見積もられ、そのうちA.P.ヒルの軍団はまだハーパースフェリーにあった。要するに敵の半分以下の兵隊が長途の行軍に疲れ、自然の地形を利用することで築城もせず砲撃の轟音下で体を休めている、それが16日の北ヴァージニア軍の状態であった。
     マクレランが後日語ったところによると、右翼、左翼交互に攻撃をしかけ、敵が右翼、左翼に兵配置の方寄りをみせて隙を作ったところで、騎兵隊を先頭に中央突破を図るというものであったらしい。
     それは裏を返せば、リー司令官にとっては陣形内の兵の移動を迅速に図ることで、北軍の攻撃のウェイトが大きいところに絶えず援軍を送り、付け入る隙を作らないということにつながる。別の言い方をすれば、総攻撃を仕掛けられれば一たまりもないが、師団単位に漸々に攻撃を仕掛けられるなら、そこの部分だけは自然地形を利用して優位に立ちうるということでもある。


4.「沈まぬ太陽」
     翌17日早朝から始まった北軍の攻撃は、まさにその通りになった。
     未明には小雨が降っていたが、やがて、まぶしく昇る太陽の熱が、垂れ込めた霧を振り払った頃、北の森の背後からJ.フッカーの第1軍団が10個旅団の大兵力で迫ってきた。彼らは肩も触れ合うほどの密集隊形で軍旗を振りつつ近づき、森の後方の農家付近にある小丘に配置した砲列から、南軍の立てこもる丘へ砲撃を加え始めた。
     ダンカー教会付近にはフッド旅団が森のなかに潜み、敵正面のそのやや左に、ジャクソン軍のA.R.ロートン師団が、自軍の一部を三つの森に囲まれたとうもろこし畑のなかに隠した。進んでくる北軍A.ダブルディの第1師団、J.リケッツの第2師団とは、正面から鋭角的な方形陣で相対することになる。両師団が畑の縁付近に至ったころ、南軍兵は突如立ちあがり、一斉射撃を加えた。
     J.フッカーは、とうもろこしの幹の間から、朝陽に輝く南軍の銃剣が見えたと思った、その次の瞬間の出来事を、次のように記している。
     「辺り一面、とうもろこしの幹は、どれもナイフで切り取られたようになり、兵は隊列を組んで進んでいたそのままの場所で、いっぺんになぎ倒された。これほどに悲惨で血染めの戦場に出くわすことは、もうあるまいと思われた」
     J.フッカーは、自軍の砲兵隊を左翼に移動させ、尖頭弾・キャニスタ弾を南軍の陣列に加えさせた。次の銃弾を充填する余裕のない南軍兵は、真っ黒い煙の柱が吹き上がるなかを、自軍が立てこもる丘に向かって一斉に退却を始めたが、牧場の囲いとなっている街道脇の木柵を超えるところを北軍前衛の残存部隊から射撃され、あるいは木柵にしがみついたまま、あるいは折り重なっての屍骸の山となってしまった。
     背後から続々と横隊列を組んで進む北軍兵は、助けを求める戦友の声も耳に届かないかのように、いっこうに立ち止まりもせず、狂ったかのような叫びをあげつつ漸々に進んで行った。
     リー司令官は、荷馬車道の窪みに立てこもっているD.H.ヒル師団から3個旅団を引き抜いて西の森付近へ前進させ、フッドの旅団と共同で猛射撃を加えつつ押し返したが、南軍の指揮官たちは、北の森の背後に強力な砲兵陣が敷かれているの見て引き返さざるを得なかった。
     J.フッカーの軍団が南軍の猛攻のまえに引き下がっている7時半頃、後方からJ.マンスフィールドの第12軍団が現れて一斉に突撃を開始したが、陣の先頭で兵を励ましていたJ.マンスフィールド軍団長は敵弾を浴びて落馬、後送されて間もなく死亡した。
     同軍団の右翼隊は、なおもJ.フッカーの後退で空いた場所に突撃を繰り返したが、JEBステゥアートがニコデマスの丘の上から雨注させる砲弾の爆裂はすさまじく、突起した岩を遮蔽物として射撃するJ.R.ジョーンズの旅団の攻撃にも晒され、むやみに戦友の屍骸を畑に撒き散らしながら退却していった。
     しかし、左翼隊はフッド旅団に繰り返しの射撃を続け、ついに南軍左翼の中央に押し込む形でG.グリーン師団がダンカー教会付近を占領した。もし北軍の来援部隊があとに続き、南軍の立てこもる丘へ上っていけば、ジャクソンの陣は崩壊せざるをえない。
     その時、東約半マイル、東の森付近にサムナーの第2軍団の前衛が現れ、まっすぐに進んでくるのが南軍陣地から見えた。
     この日、リー司令官は、戦闘指揮所にはほとんどいなかった。愛馬「トラベラー号」に跨り、全線に赴いている。ジャクソンが思いついた策を入れ、後方からマックロウ師団を呼び寄せて最左翼に兵を散らしてゆき、更に下流の橋付近のウォーカー師団から2個旅団を引き抜いてジャクソンの陣前に急行させ、西の森に潜ませて行った。都合1万人、進んでくるサムナーの前衛軍セジウィック師団約5千人を、半円形に囲繞する形である。
     セジウィック師団は二列横隊で軍旗を翻しつつ進み、南軍の陣前に南北に走るヘイジャースタウン街道を何事もなく渡り、西の森に近づいたところで突然、岩陰から轟っという響きを伴う集中火を浴びた。2倍の数の南軍兵は彼らを半円形に取り囲み、銃弾が敵の中央後方へ向けて飛び交うような形で射撃したのであった。突然のことで応戦のいとまもなく、密集隊形で進んだために損害は甚大で、わずか20分間で5千人の兵は半分ほどになってしまった。
     ダンカー教会付近のG.グリーン師団も予備の投入兵によって押し返され、ジャクソン軍は一斉に敵陣の乱れに付け込んで突撃に移ったが、東の森付近に配置された50門の砲が放つ大口径散弾の威力はすさまじく、再び西の森の背後に戻らざるを得なかった。
     この頃、サムナーの二つ目の軍団であるフレンチ師団は、セジウィック師団の左翼に出るはずが銃砲の炸裂による煙と混乱のなかで道に迷い、D.H.ヒルのこもる荷馬車道の正面へと向かっていき、ここでも斉射を浴びて被害を続出させていた。
     リーの兵団は4分の3が町の北の左翼陣へ集中していた。もはや左翼とは呼べず、前陣があるだけで中軍がなく、後衛との間に大きな空隙を生じつつあったといってもいい。もし、北軍が戦力の逐次投入をするのではなく、全軍が一丸となって進撃していれば北バージニア軍は崩壊を免れない。
     その時、D.H.ヒル師団による「塹壕道路」からの連続斉射で手痛い打撃を受けているフレンチ師団から、I.リチャードソンの旅団が南軍の右翼に回り込もうとし、ブーンズボロ街道に近いあたりから攻撃を始めた。リー司令官は即座に危険を察知し、後方からR.アンダーソン旅団を投入して備えたが、全線に到着するなりR.アンダーソンは被弾して後送され、それまで北軍に猛攻撃を加えて前線を支えていたR.ローズ旅団の一部がわずかに退却をして出来た空隙にI.リチャードソン兵が突撃し、荷馬車道に向けて遮二無二の射撃を始めた。
     窪んだ道路に身を潜め、一列に並んで正面の敵に弾を撃っているところに横から撃たれたのだから外れ弾は当然に少ない。強力な抵抗線を誇っていたD.Hヒル師団は塹壕内に「血染めの道」と仇名されるほどの屍骸の山を築いてしまった。
     全軍崩壊の危険が、最高潮に達している時といえた。退却するD.Hヒル師団の残存兵が丘に駆けあがり必死で前線を支えているだけだった。北軍のプレソントン騎兵隊が、マクレランが理想としているフランス大陸軍の戦術のように、ブーンズボロ街道沿いに中央突破攻撃をしてくれば、退却路となっている渡渉点まで遮るものがなにもない。リー司令官は後方の予備部隊を全部、左翼陣に投入していた。
     マクレランは、対の陣となっている丘の中央付近にあった瀟洒な屋敷を接収して戦闘指揮所にしていたが、戦場に充満している銃砲の煙が望遠鏡の視界を遮るなかで何を考えていたのだろうか。左翼、右翼と攻撃をしかけ、敵の配兵が偏ったところで中央撃破を図るはずではなかったか。今がまさに、そのときだった。ポーターの第5軍は全く無傷で後方に控えていた。プレソントンの騎兵隊も控えている。しかし、攻撃をためらい、ただ時間を空費していた。
     下流の橋付近では午前9時頃から間欠的な攻撃が繰り返されていた。マクレランは、いかなる犠牲を払っても対岸の丘を突破せよとバーンサイドに命令を下していたが、午後1時になってもまだ敵陣を抜けない。橋の周囲は北軍兵の屍骸で散乱していた。この橋は後年、何の作戦もなく無茶無謀な攻撃の繰り返しで驚くほどの犠牲を出したことを記念して、バーンサイド橋と呼ばれる。
     そのうち、橋の上流と下流で渡渉点が見つかり、丘の上の敵陣を砲による射程内に収めた砲兵隊からの二方向による砲撃が始まり、ニューヨーク第51連隊とペンシルバニア第51連隊の遮二無二の突撃で南軍陣地に壊走の前兆と見られる混乱が見え始めた。R.A.テゥームズも被弾して重傷を負い、率いていたD.R.Jones師団の一支隊にも撤退の様相が見え始めた。
     この南軍にとって最も危ない時、リー司令官が最もあてにしていた最後の投入部隊が到着を始め、中央から下流の丘にかけての空隙を埋め始めていた。ハーパースフェリーから、17マイルを7時間の強行軍で駆けつけたA.P.ヒルの師団である。
     マクレランが、リーの兵力を自軍に勝ると過大に見積もり、後方にあって望遠鏡を時たま覗くだけで前線には赴かず、北から順番に軍団単位の攻撃を加えている間に、幾つか空いた空隙さえも見逃していた。そうして南軍の前線は次第に安定をし始め、夕刻まで射撃と砲撃は繰り返されて夜を迎えたのである。
     南軍兵の多くは、明け方からの夢中の戦闘の繰り返しと危機の連続に、神経がおかしくなりそうであったと証言する。
     「何度空を仰ぎ、太陽はまだ天に輝いていると思ったか。この日、陽は決して沈まないのかと思った」
     と証言する者もいた。


5.バランスシート
戦  死 負  傷 行方不明 合     計
北  軍 2108人 9540人 753人 12401人
南  軍 1546人 7752人 1018人 10316人
(上記数字にサウスマウンテンの戦いの死傷者・行方不明数は含まれていない)


6.その後の経過及び評価
     9月17日の戦いを終わった北バージニア軍は、夜中に渡渉して明け方まで北軍に全く気づかれなかった。リンカン大統領はマクレランに直ちに追撃をするよう要請したが、マクレランはなおも動かず、督戦に訪れたリンカンに兵の補充がなければ進軍しないと告げ、ついにポトマック軍司令官の地位から永久に解任された。
     戦闘では互角だったリー司令官も、戦略面ではワシントンの後方に回り込むという初期目的を果たせずに終わった。麾下軍兵に多数の脱走者を出すなど、、あきらかに無理な忍耐を強いても作戦遂行が必要だったかどうか、後代まで評価は一定しない。
     マクレランが解任されたことで、ポトマック軍司令官はバーンサイド、J.フッカーと続くが、いずれもフレデリクスバーグの戦い、チャンセラースヴィルの戦いに手痛い打撃を受ける。北軍は大兵力を有しながら、リー司令官の機略のまえに今だ数次の敗戦の憂き目をみ、ゲティスバーグの戦いまで北ヴァージニア軍の優勢な状況は続いた。
     政略面では、リンカン大統領は「奴隷開放宣言」をかねてから考えていたものの、一戦に勝利するまでは「負け犬の悲鳴」になるとの側近の建言をいれ、アンティータム戦まで控えていた。リーの軍隊を追い払ったことで、「奴隷開放宣言」が出され、南北戦争はこのときから、反乱軍鎮圧のための政治的戦争から一歩を進み、革命戦争の様相を帯びるに至る。
     リンカン大統領にとっても、最も困難なときであった。第二次マナサス会戦で北軍が敗北した際、英国政府首脳は和平仲介を真剣に検討したという。それがアンティータム戦で侵入した南軍を打ち払い、「奴隷解放宣言」によって政治的な形勢が微妙に揺れ動いた。
     南北戦争の勃発によって、英国の紡織産業は原料が入らず大打撃を受けていた。しかし、奴隷制度を維持する国家を、アダムスミス以来の資本主義思想と賃金労働に立つ自由国家、超大国の大英帝国が支持するわけにはいかない。その頃の首相パーマストン卿は、外相時代から大西洋での英国海軍を動員しての奴隷船狩りを、最も強力に推し進めた人物として知られていた。













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