- 主要会戦日
- ヨークタウン砲撃 1862年5月5日
セブンパインズの戦い 5月31日〜6月1日
7日戦争 6月25日〜7月1日
序:半島戦役の概観
半島戦役は、大きく分けて3段階に分けられます。
第一次マナサスの戦いに敗れた北軍ですが、G・マクレランのポトマック軍(首都防衛とリッチモンド攻略を兼ねたワシントン周辺の北軍の総称)司令官就任によって勢力を立て直します。
この北軍が、今度は10万人規模でリッチモンド攻略を画した一連の戦いを「半島戦役」と呼びますが、モンロー要塞付近に上陸した彼らが首都リッチモンドの手前までゆき、いったんはセブンパインズの戦いで膠着状態になる、それが第1段階です。
第2段階は、それまで軍事顧問だったロバート・E・リーが司令官になり、損害を省みない遮二無二な戦いを挑んだことで北軍は首都周辺から後退を余儀なくされ、ついにリッチモンド南東15マイルにあるマルバーン・ヒルまで主力が押し返されるまでが、7日戦争と呼ばれて、ひとつの画期になっています。
それで、第3段階はマルバーン・ヒルの戦いそのもので、北軍が砲列を敷いていたところに南軍が突撃して猛烈な被害を受けることになりますが、それでも北軍は当初の目的を達することができず、慎重居士のマクレランが一時的に解任される結果を招いてしまう、そこまでが「戦役」といえるでしょう。
ヴァージニアは植民地時代から煙草の栽培で有名で、その東半分は日本人には想像がしにくいほどに広大な湿地帯です。入り江や河川が複雑に交錯し、雨季を迎えて荷馬車・砲門などの移動に手間取ったことは想像に難くなく、マラリアの発生が野営する両軍を苦しめたものとみえます。
半島戦役その1 セブンパインズの戦い
セブンパインズの会戦は日本ではあまり名前も知られていないように思います。日本名ならさしづめ、「七本松の戦い」とも言うべきでしょうが、会戦の規模と死傷者数は第一次マナサス戦よりも大きく、南軍の死傷者6134人、うち戦死980人、北軍の死傷者5031人、うち戦死が790人となっています。
リッチモンドの西方8マイルの地点にあるセブンパインズは、当時はヨークタウンとリッチモンドを結ぶ中間地点の都市ウィリアムスバーグに通じる街道が、北から伸びてくる「9マイル道路」と交わる地点で、今ではリッチモンド空港の表玄関口になっています。
とくにレンタカー会社が自動車をならべている、その東側の草原や山林が激戦地でした。
1.北軍の立て直し
第一次マナサス会戦で北軍は壊走し、ポトマック川の反対側ではジョンストン率いる南軍がとぐろを巻いているという始末で、首都ワシントンは一転して危機状況になった。実際、北軍の威力偵察隊が南軍と遭遇戦を演じた「ボールの崖」の戦いでは、北軍は手痛い敗北をこうむり、リンカンは指揮官として加わっていた親友を失って、人目もはばからずに泣き崩れるほどの状態だった。
また、ニューヨークの人気新聞紙「トライビューン」の有名な編集長ホレス・グリーリィは、第一次マナサス会戦までは「リッチモンドへ進め」と喚いていたのに、急に和平を進める手紙をリンカンに送るという醜態を演じている。
いかに北軍の敗北の衝撃が大きかったかを示しているが、その立ち直りも極めて急速であった。その要因中の最大のものが、マクレラン(George
B.McClellan)のポトマック軍総司令官への起用であり、次がリンカンによる志願兵50万人募集にあったことは間違いがない。北部の怒りは大きく、国民的英雄を見つけ出し強い軍隊を与えれば、勝てないはずがないというのが一般の世論であった。
マクレランは、この時35才。名家の生まれでウェストポイント軍官学校出身、ヨーロッパ視察ののち退役して鉄道会社の副社長まで勤めていたところで戦争になり軍に復帰、バージニア西部の小規模な戦いで勝利したことから、リンカンによって大抜擢された。
彼は憲兵隊を強化して賭博場や売春宿、酒場を襲わせ、許可無く勝手に兵営から出ることを禁じ、命令違反者を営倉にぶちこみ、軍律を叩きこむという面では相当に厳しかった反面、潤沢に回されてくる予算で装備と給養を怠らず、個人的なカリスマ人気を集めて士気を鼓舞し、新兵を連日の厳しい訓練で次々に軍団としてまとめ上げて行った。
マクレランの兵制では、10個中隊(company)で1連隊(regiment)、数個連隊で1旅団(brigade)、3個旅団に砲兵4個大隊(battery)と1騎兵連隊で1師団(division)となっていた。標準で1連隊は約千人、1師団が約1万人になるが、ばらつきは当然に大きく、多くの師団に分かれた大兵力を機動的に動かすため、半島戦役では師団を数個合わせた軍団制を敷いている。
2.半島戦役前のワシントン
リンカンは、第一次マナサス戦までは兵役3ヶ月の義勇兵7万人を募集して、それで間に合うと思っていた。しかし、その後は兵役3年の義勇兵50万人の捻出を各州に働きかけている。南部の政治家数人を相手にした小規模な戦闘では埒があかないと観念した模様であった。
大兵力を預けられたマクレランは、これらをまとめるため、米軍の兵制では初めて参謀長職を起き、士官学校卒業生を正規軍ばかりでなく義勇兵からなる兵団にも配置して、首都防衛に気を揉む老将軍ウィンフィールド・スコットと対立した。
マクレランの任務は、北軍の立て直しのほかに、首都防衛のための周辺要塞の構築、ポトマック川南岸のJ・ジョンストン軍への対処、更には反攻作戦の立案と実施までも課されてゆき、やがてマナサスの戦いの後の半年を乗りきったことで、半島戦役を立案して実施にまでもってゆくことになる。
不思議なことだが、南軍はマナサスの戦いで勝っても、そのままワシントンを攻撃せず、ずっととぐろを巻いたままであった。これは兵制未整備な南軍側の事情に加え、ジョンストン司令官の個人的な性格が色濃く反映したもののようである。南軍もまた積極的に攻勢に出るには兵力が足らず、ジョンストンはリッチモンドからの新たな兵力の来援なしには攻撃しないと宣言してした。つまりは、両方で軍備拡張を続けていたわけである。
戦力立て直しに功績のあったマクレランには、周囲ではなかなか気がつかない軍人としての欠点があった。万が一にも戦闘に破れて自分の名声に傷がつくのを恐れ、敵の兵力をつねに過大に考えて慎重に過ぎることである。
このときも彼は、兵力が273,000人に達しないと反攻作戦には出ないと宣言をしていたというから、ポトマック川を挟んで双方でにらみ合いをしていたというのが、マナサス戦から半年間の事情であったということができる。
当然、何のために多額の予算で大兵力を維持しているのかという世論の声は高まり、何よりも、リンカンが積極的に攻勢に出るべきだと考えていた。リンカンは、81年の冬を越してしまったことを悔悟し、もう一年、兵を養いたいというマクレランの尻をひっぱたく形で、82年春からのリッチモンド攻略を命じた。82年1月27日付けの大統領令第1号がそれで、海陸総攻撃の日を2月22日と定め、ポトマック軍司令部に一方的に通告したのである。
3.戦略的課題
当初、ヴァージニア半島から攻撃するほかに、二つの選択肢があった。ひとつは、大兵力にものを言わせて正面から南下する方法。これは首都ワシントンの前面をがら空きにしないという長所がある反面、途中で山間部や沼地を控えて幾つかの大会戦が予想されるので、短期決戦を考えるリンカンによって、結局はマクレランの主張する迂回作戦が取られることになった。
迂回作戦といっても、マクレランも始めはリッチモンドから東50マイル、ラパハノック川のアーバンナ(Urbanna)を上陸地点と考えていた。なぜなら、半島先端にあるモンロー要塞の沖、ハンプトンローズの水道が、南軍による世界初の装甲艦メリマック号によって安全を脅かされていたからであった。
それが3月8日から翌9日にかけて、現場に急行した北軍の装甲艦モニター号のとの一騎打ちで、メリマック号が手痛い損傷を受けてノーフォーク造船所に逃げこんだことから、にわかにモンロー要塞に拠点を構えての大規模な北上作戦が可能になった。
4月いっぱい、北軍はモンロー要塞からマクレラン軍の兵力約10万人を上陸させ、更にフレデリックスバーグ(リッチモンドとワシントンの中間地点にある、古くから川に面した良港を持ち、タバコの出荷をしていた町で、この後、南北戦争中度々の戦火にあっている。)にマクダウェル軍5万人を上陸させて、首都リッチモンド攻略の体制を整えた。
北軍は更に5万人程度の兵力を持っていたが、ストーンウォール・ジャクソンがシェナンドア渓谷で陽動作戦をやっていたことから、首都防衛に割かれる兵力を合わせて、そのうち約4万人が参加できないでいた。
ジャクソン軍は、セブンパインズの戦いには参加できなかったが、その後のリー将軍の「七日戦争」には、北軍の裏をかく形で急行してきて参戦している。
4.ジョンストンの遅滞戦術
南北戦争を省みるとき、半島戦役で当初は南軍の東部方面軍司令官であったJ・ジョンストン(Joseph E.Johnston)と、
その後に交代した将軍ロバート・E・リーの戦争作法の違いが際立っているように考えられる。
ジョンストンはメキシコ戦争でも武名を上げた現地展開軍の司令官で、リー将軍はどちらかというと後方で要塞の設計や参謀役をやっている経歴が長い。あまり実戦向きではないとさえ一般には考えられていた。
ジョンストンは、一貫して正面突撃を避け、敵が進軍してくると味方に後退を命じ、それも時にディビス大統領が怒り狂うぐらい際限もなく後退を命じ、その過程で自陣を整頓しつつ斥候を放って敵の陣営の弱みを見つけ、突然に反撃に出て敵に大出血を強いる、そういう戦法を度々用いている。
リー将軍は、このときはまだ大統領付きの軍事顧問で、その現地司令官としての能力は未知数、セブンパインズの戦いでジョンストンが重傷を負ったことから交代して司令官になり、以後は誰も想像ができないぐらいに積極攻勢型の司令官になる。その姿勢はゲティスバーグの戦いで破れるまで一貫して変らない。
半島戦役のあと、北上して第二次マナサスの戦いに完全勝利をし、マクレランとアンティータムの戦いで雌雄を決しようとするが互角の戦いになり、余りに損害が大きいことからいったん引き上げざるをえなくなる。
南軍の全体的退潮のなかで再び北上作戦をもくろむが、ゲティスバーグに破れてからはワシントン攻略をあきらめ、むしろヴァージニアは占領できない、北軍に大量の出血を強いれば政略的にリンカンを窮地に追い込めると考えて、防御的作戦に終始するようになる、
この人物ぐらい兵隊から愛され、米国人が天才的軍略家と称えつつも、北軍の最大の敵になりアーリントンに墓の山を築いた人はいないのだから、「善人はときに最大の悪人である」という、ある北軍将校の評はあたっているかもしれない。
とまれ、半島から北上する10万人の北軍は曲射砲や臼砲、果ては海岸の防塁に設置される大型のパロット砲まで十分に持っていた。
それで要塞都市ヨークタウンまで、北軍はじりじりと慎重な進撃をし、南面したワーウィック川(現在は堆積してなくなっている)の対岸に防塁を築いて砲撃攻略の構えをみせている、そういう状態のなかで、ヨークタウンにこもっているジョンストンは、上記の性格を如実に示した。
それが5月5日早朝のことで、北軍の砲撃開始を控えて首都リッチモンドへむけて南軍は一斉に後退していく。攻撃をした南軍陣営内は裳抜けのからであり、殿軍はマグルーダーの師団で、彼がウィリアムスバーグで北軍を押さえている間に、南軍主力はリッチモンドの北・東・南に面して築かれた陣地内に逃げ込んでしまう。
しかし北軍は追撃せず、これまでどおり慎重な進撃を続けざるをえなかった。なぜなら、ひとつはマクレランという人間が、慎重なうえにも慎重な男で、敵に倍する兵力を持ちながら、自軍こそ敵の半分しかないと思っていた。彼は、リンカンに追加兵力を要求するばかりで、いっこうに進軍しようとしなかったのである。
そのため、翌5月6日にはリンカンが督戦のためモンロー要塞にやってきて、マクレランの尻叩きをやる一方、要塞司令官にノーフォーク攻撃を命じて、造船所に退避していたメリマック号を、ついに自沈に追いこんでいる。
もうひとつは、首都リッチモンド砲爆のためにジェイムズ川を遡行していた北軍船隊が、ドリューリ崖の要塞から砲撃を受けて戦艦一隻を撃沈され、それ以上進めないことが明かとなったため、あくまで陸軍によってのみリッチモンドを攻略せざるをえない形勢となったことが挙げられる。
(この要塞には私も行ってみた。ジェイムズ川はまるで南洋低湿地帯の河川に見られるように、どこでも蛇のように曲がりくねっている。ところが、ここは数マイルの間、見とおしのよい一直線になっていて川幅もせまく、射手は左右の外れは気にせずに距離だけを考えて砲弾を撃てばよい。当時の軍艦は速度が遅く、数艦が数珠繋ぎに並んで遡行してくれば、定めし命中率はよかったものと思われる。このような河川に築かれた都市防衛用の要塞は、ほかにもカンバーランド川下流のドネルソン要塞をはじめとして幾つかある。)
5.セブンパインズの戦いの南軍側作戦
ところで、ヨーク側上流のホワイトハウス上陸地を後方の兵站基地にし、ゲインズミルを戦闘指揮所にしていたマクレランは、突然マラリアに襲われて寝こんでしまった。(夏場に近く、低湿地帯なので無理もないが、前年の冬から年初にかけては腸チフスで寝こんでいたので、ご難つづきと言えるだろう)
彼としては、フレデリックスバーグから南下を始めるマクダウェル軍5万人の増強をあてにしていたものかも知れないが、この事情は、裏を返せばリッチモンドの危機感につながる。
デイビス大統領は、すでに家族を後方の都市へ退避させ、首都を南に移して南西100マイルに防衛線を張る案を検討させていたが、その席上でリー軍事顧問は感情がせり上げてきて「ここを敵には渡せん、どうあっても敵には渡せん」と涙混じりになったという。
そのなかで、ジョンストンの逃げばかりではない、持ち前の戦略思想が出てくる。どういう理由かは今だもって定かではないが、マクダウェル軍は戦意が乏しく、いっこうに南下をしようとしない。それで、両軍合体前にメカニクスヴィルあたりに大攻勢を考えていたジョンストンは、一転してチカホミニー川南岸の北軍が手薄になっていることを斥候の報告で知り、弱点につけこむことを考えた。
こうして、5月31日から翌6月1日にかけて、セブンパインズの戦いが起きることになる。
リッチモンドとヨークタウンを結ぶ中継都市ウィリアムスバーグへ通じる街道である「ウィリアムスバーグ街道」は、リッチモンドの北方から伸びる「9マイル道路」とセブンパインズで交差する。「9マイル道路」は、セブンパインズの1マイルぐらい手前で、ヨーク川上流の「ホワイトハウス泊地」へ通じる鉄道と交わり、そこに昔、フェア・オークスという名前の駅があった。
この鉄道は今では撤去されて高速道路になっているが、このフェア・オークスを中心にして半径1マイルぐらいが、数万人が密集して銃砲を撃ち合う戦場になったのである。
J・ジョンストンは、斥候の報告でチカホミニー川南岸の北軍部隊が手薄で、しかも部隊ごとに分散して進軍してきていることにかんがみ、フェア・オークス駅とセブンパインズの間に強力な打撃力を加えれば、川の北岸の北軍主力との連絡は絶たれ、キースの第四軍団とヘインツェルマンの第三軍団を壊走させられると踏んだ。
しかし、その打撃力として担任されたロングストリートの6個旅団は、ジョンストンとロングストリートの相互理解がうまくいかず、ロングストリートが珍しくへまをやったことから、あらぬ方向へと部隊展開してしまい、全体の作戦展開に思わぬ齟齬をきたしてしまった。それが、この会戦の特徴であると言えるが、後年に戦史に武名をとどろかす将も、それを支えた戦意旺盛な兵も、開戦当初は何から何までが不慣れで複雑な奇襲攻撃ができなかった事情は、「七日戦争」でのリー将軍の苦戦のなかにも如実に現されている。
ゲインズミルに戦闘指揮所を置くマクレランの本営の前面には、チカホミニー川を挟んで北軍の3個軍団がびっしりと展開をしていた。しかし、北軍は川を渡渉しないとリッチモンドを攻略できず、渡河地点は当然に限られている。
5月31日早朝、リッチモンド郊外の防衛陣から進軍してきた南軍は、この北軍3個軍団に対してはA.P.ヒル師団とマグルーダー師団をあて、ジョンストン自身はホワイティング師団を指揮してフェア・オークス駅の北、オールドタバーン付近に控えた。その南にロングストリート師団、更に南にD.H.ヒル師団、そのまた南にヒューガー師団が並び、D.H.ヒル師団が「ウィリアムスバーグ街道」を西進してくる北軍の前衛部隊を叩き、機をみてロングストリート兵団がセブンパインズとフェア・オークス駅との中間に割り込むのが南軍の作戦であった。
6.セブンパインズの戦いの戦闘経緯
ところが、ロングストリートは何を思ったか、麾下の3個旅団をヒューガー師団のいる方向へ向け、1個旅団を敵がいないフェア・オークス駅の北へ差し向け、遮二無二の突撃で兵力が損耗し、ついに援軍を求めきたD.H.ヒルの要請を受けて初めて戦闘の様子を掴む始末であった。彼は3時過ぎになって、やっとのこと残る2個旅団を、最初に企図したセブンパインズとフェア・オークス駅との中間に送りこんだ。
当然、前衛が猪突猛進しても後衛がついていかなかったことから、北軍の後続部隊に立ち直りの時間と余裕を与えてしまい、D.H.ヒル師団は2時間に500発の砲弾を浴びて損害が甚だしく、ロングストリートによる割りこみの打撃力は弱く、北軍左翼部隊のサムナーの第二軍団が、前日の降雨による増水にもかかわらずチカホミニー川を渡渉してきてフェア・オークス駅に向ってきたことから、南軍の形勢は敵を分断するどころか一転して自軍が分断されそうになり、はなはだしく分が悪くなってしまった。
ジョンストンも、北軍砲兵部隊が進出してきているとは思わず、4時過ぎ、ロングストリートがジョンストンに援軍を依頼してきて初めて戦況の逼迫に驚愕、急きょホワイティング師団に「9マイル道路」からセブンパインズに向うよう下令した。
しかし、彼もサムナーの北軍第二軍団が進出してきているとは思わないことから、左翼方向の警戒を怠り、体制を立て直したキース軍団の前衛軍とサムナー軍団の前衛軍の攻勢をうけてしまう結果となった。
フェア・オークス駅の北側で、ジョンストンは飛んできた銃弾に右肩を撃ち抜かれ、砲弾の破片が胸に食い込んで落馬、気を失って後送され半年ばかり復帰できなくなったことが、リー将軍による指揮官交代につながった。
ただ、この戦闘では直ちにリー将軍に指揮権が移ったわけではなく、いったんは戦闘序列に従って次席のG.W.Smithに移り、この人物が作戦ベタで戦争恐怖症で、ロングストリートと口論になったことから、またまた翌日の作戦に齟齬をきたしてしまった。
G.W.Smithによれば、翌6月1日の作戦ではフェア・オークス駅の南側の3個師団は全部北側に進撃させよ、というものであった。しかし、ロングストリートにしてみれば、東になお強力な北軍を控え、それは街道を進撃できるわけだから、右翼方向を敵にさらして大部隊を進ませねばならない。しかもフェア・オークス駅の北側は山林が多く、いきなりの会敵は難しく、北軍との銃砲戦になるまえに兵団は分散して進まなければならなくなる、それで敵と接触したときには大損害はまぬかれない、というのが、新司令官G.W.Smithとの口論の主な理由であった。当時の戦況に照らして、至極至当な判断といえる。
それで、ロングストリートは、一応は命令には従うとしたものの、「3個師団」に替えて「3個旅団」しか送らず、自身は後方に大部隊を構えたまま作戦の成りゆきを傍観したことから、前線に向ったマホーン、アミスティード、ピケットの3旅団は壊走してしまった。部下に負けさせるための命令をするとは、いかにもひどい話だが、D.H.ヒルの師団も前日の損害が大きく、前線に向かった3旅団に積極的な支援をしなかった。
これが、2日間に渡った「セブンパインズの戦い」で南軍が敗れた、より正確には勝利できなかった理由と言える。新司令官G.W.Smithは、重責への精神的負担と戦争への恐怖から神経衰弱となり、数日後に退役することになった。
南軍にとってみれば、北軍の半分を壊走させて首都攻略の勢力をそぐという当初の目的は達せられず、総司令官ジョンストンの重傷と後送という事態があった以上、「セブンパインズの戦い」は戦闘としては失敗に帰したといえるだろう。
しかし、ロングストリートのサボタージュによって南軍の主力は温存され、更に戦いの損害が第一次マナサス戦よりも大きかったことは、慎重派のマクレランをしてマクダウェル軍の来援を待ってからの首都攻略を決意させ、そのことが南軍に新たな作戦展開の機会を与えてしまった。
マクレランの作戦遅延が、新司令官ロバート・E・リーによる「七日間戦争」を招来したともいえるが、リーの登場で南北戦争の様相が一変してしまうことになるとは、当時の誰も想像していなかった。
半島戦役その2 七日戦争
「七日戦争」とは、6月25日から7月1日まで、南部連合の首都リッチモンドの攻防をかけて行われた一連の戦いをさします。また、その大きな山場は27日の「ゲインズ・ミルの戦い」と、7月1日の「マルヴァーン・ヒルの戦い」の二つです。
ゲインズ・ミルとは、その名のとおり水車を利用した粉引き所のことで、チカホミニー川に注ぐ小河川沿いに作られていた付近の農家用の施設です。ヴァージニアは煙草栽培が一般的になる以前は、開拓民の食糧として米の生産が盛んで、この頃では麦やトウモロコシも多く生産され、用水路として低湿地帯に土を盛った堰堤が多く築かれました。
南軍の奇襲を受けてゲインズ・ミルに後退してくるポーターの北軍第五軍団は、その北方のビーヴァー・クリーク・ダムという場所で、しばし敵の攻撃を支えますが、この「ダム」というのも、日本で一般的に考えられる「ダム」ではなくて、そうした堰堤の一つと考えられます。
マルヴァーン・ヒルも丘の上の農場ですが、ジェイムズ川が大きな土塊に突き当たって湾曲を描く場所にあります。今は公園管理局の手で青々とした芝に北軍の陣営を示す大砲が数門配置され、ひっそりとしたたたずまいのまま維持されていますが、その戦闘の様相は近代的な兵器技術の進歩を過小評価して、ナポレオン戦争の戦術のまま突撃を繰り返す、南北戦争の悲惨な光景の始まりをなすものでした。
7.両軍の布陣
セブンパインズの戦いのあと、両軍はにらみ合いの状態が暫く続いた。北軍司令官マクレランは、10万人規模の兵をリッチモンドの東に置き、相変わらずフレデリクスバーグからマクダウェル軍が3万人程度で南下することを期待し、更にワシントンに援軍を求めていた。
北軍は、ヨーク川上流の支流パマンキー川にあるホワイトハウス泊地に後方の補給基地を置き、「リッチモンド&ヨーク川鉄道」を使って兵員・武器弾薬その他の物資を前線に運びこんでいたが、降雨期を迎えて低湿地帯の泥濘に砲門輸送が困難になり、道路や橋の補修、前線の築城工事などに時間を費やしていた。
北軍の布陣は次のようなものであった。
リッチモンドの北から南東方向に流れている小河川チカホミニーの東岸沿いに、北からポーターの第五軍団、フランクリンの第六軍団が展開、サムナーの第二軍団はセブンパインズの戦いのために渡渉して、リッチモンド手前のフェア・オークス駅付近に展開、その南にウィリアムスバーグ街道に沿ってヘインツェルマンの第三軍団が位置し、更に南にキースの第四軍団が連なっていた。
一方、南軍では、重傷を負ったジョンストンに代ってロバート・E・リーが「北バージニア軍」総司令官になり、軍の建て直しと新たな作戦立案にやっきとなっていた。首都の東方に展開する南軍は約6万人、火力で劣るうえに北軍のほぼ半数のため、じっとしていれば戦さの定石どおり、砲兵の支援下に歩兵が要地から要地へと進撃して占領し、やがて首都が包囲され陥落することは目に見えていた。
リーが建てた作戦は、1)首都東方の築城を強化して、曲射砲攻撃による効果を少しでも減殺しつつ軍の増強整頓に時間を稼ぐ。2)シェナンドア渓谷で作戦しているT・ジャクソン軍18500人を急きょ呼び戻し、すかさず使う。3)ポーターの第5軍団右翼が手薄と見えるので、メカニクスヴィル付近から大攻勢をかけ、後方の補給線も遮断する。4)よって、戦闘の様相をドラマチックに変化させ、定石どおりの作戦実施を不可能にする、などの要点を含んでいた。
長途に疲れた軍を直ちに使う、兵力の大半を迂回攻撃に使うことで、首都の東方をほとんどがら空きにしてしまうなどの難点があったが、それ以外にないと考えたリー司令官は、マクレランの何につけ慎重にことを運ぶ心理を土台にして、大きな賭けに出たといえる。
かくて、西のシャイロウ会戦と並ぶ凄惨な戦いは、リーの機略とともに始まった。
8.戦闘前の軍部隊の移動
まず、リーは作戦の実施可能性を確認するため、騎兵旅団長JEBステゥアートに命じ、北軍陣営の背後を偵察させた。
その目的は、1)ポーター指揮の第五軍団右翼が自然地形で守られておらず、急襲が可能であること、2)「リッチモンド&ヨーク川鉄道」の主要な駅や橋が大兵力で守られておらず、それらが前線に展開している、というリー自身の推測を確認することにあった。
年も若く、大胆不敵な行動をことさらに好むJEBステゥアートは、この危険な任務を喜んで引き受け、6月12日の早朝、千人余でシェナンドアに向かうとみせかけてリッチモンドの北へ進軍、突然に向きを西に変え、随所で北軍の歩哨、騎兵の小部隊と小競り合いをしつつ、ぐるっと北軍の背後を回って15日に帰ってきた。
後方の安全を重視するマクレランは、後方の駅停が敵騎兵隊により襲撃されたとの報告を受け、兵站基地をホワイトハウス泊地からジェイムズ川沿いのハリソン泊地に動かすよう命じて馬車隊を派遣したが、それ以上の措置はとらなかった。定石に従った軍配作法を常とする彼は、相手もまた定石に従った行動を取るものと考え、驚くべき奇襲の複線が張られているとは思わなかったのであろう。
16日、ジャクソン軍がシェナンドア渓谷からリッチモンドへ向け進発した。ジャクソン軍の動きは北軍に偵知され、フレデリクスバーグから出撃した部隊に随所で行く手を阻まれたので戦場への到着が遅れ、あとで作戦上の齟齬につながっていく。
25日、リーにとって作戦全体の実施可能性を揺るがしかねないことが起きた。オールド・タバーン(セブンパインズの戦いでジョンストンの戦闘指揮所だった所)の奪取のため、マクレランはウィリアムズ街道沿いに布陣するヘインツェルマンの第三軍団を西進させ、セプンパインズの前に出した。
それがOak Groveと呼ばれる小戦闘になり、北軍は半マイルほど進んだが、あるいはマクレランは南軍の作戦意図を察知して、これまでの漸進主義を捨て乾坤一擲の先制攻撃に出たのかもしれず、リーとしては冷や汗ものと言えた。しかし、結果としては、これまでどおり、要地を一つづつ奪っていく定石通りの戦法だったことが判明した。
攻撃予定日の6月26日未明、リーは首都東方にマグルーダー師団2万5千人(ヒューガーの兵団を含む)だけを残し、A.P
ヒル師団、D.Hヒル師団、ロングストリート師団の3師団4万7千人は全員、メカニクスヴィル付近から渡渉させた。メカニクスヴィルの東側に位置するはずのジャクソン軍と合わせれば、北軍のポーター軍団に対し倍程度の兵力で、それも右翼から一斉に崩壊させることができると考えたのである。
リーの最大の心配事は、前日につづきマグルーダー師団に対し積極攻撃に出られたら、同師団は南北4マイルに薄く伸びた陣形で3倍の兵力を相手にせざるをえないことから、どこを集中突破されても首都を防衛できないという点にあった。(この時は既に、フランクリンの北軍第六軍団も南岸に渡渉している。)
そのため、マグルーダー師団は早朝から盛んに行進をして土煙を上げ、叫び声や銃砲の音を轟かせ、充実した兵力がいまにも飛び出してくる、そのような印象を北軍に与えるよう指示されていた。
この「空騒ぎ戦術」は功を奏し、マクレランはジャクソン軍の到着が奇襲に使われるとはつゆ思わず、その関心はもっぱら正面方向に釘づけにされていく。
9.ゲインズミルの戦い
ところが、午前中に始まるはずの攻撃がいっこうに開始されない。マクレランが首都正面攻撃をためらい、いまにも突撃してきそうなマグルーダー師団に身構えているのは有利としても、味方の攻撃が始まらない。
作戦では、午前9時、最東方に位置するジャクソン軍からの銃砲を合図にA.P
ヒル師団、D.Hヒル師団、ロングストリート師団と順々に攻撃開始されるはずが、午後3時になってもまだ開始されない始末。おまけに、じれたA.P
ヒルが先陣の功をあせり、いきなり誰にも無断で攻撃開始してしまい、たいへんな損害を被ってしまった。
ポーターの第五軍団は、午前中から南軍の異様な動きを察知し、マクレランに報告するとともに、ビーヴァー・クリークのダム堰(日本で考えるような大きなものではなく、低湿地帯に僅かに土を盛った程度のもの)の背後に銃砲列を半円形に描いて待ち構えていた。
それでもジャクソンが東から回りこむ形で攻撃をすれば、ポーター軍もひとたまりもなかったはずが、ジャクソン軍も到着した兵は少なく、不眠不休の長途の行軍で疲れ果てていたことから、セブンパインズ会戦でのロングストリートにつづき、ここでも戦争サボタージュが起きてしまった。
しかし、ジャクソンの場合は少し異常で、僅か1マイル先でA.P ヒル師団が雨注する砲弾で虐殺の憂き目にあっているのに(もちろん、その轟音は耳に届いている)、その場でテントを張り寝袋にくるまって眠ってしまった、その兵隊たちも右にならえをしてしまったという。この行動は、リー将軍がジャクソンを詰問していないので理由がわからず、いまでもナゾとされている。
A.P ヒル師団を救おうとしたリー将軍は、D.H.ヒル師団も投入してこれまたひどい打撃を被ってしまう。翌日も同じような攻撃がつづき、後方から参陣する部隊も含めて全軍の足並みが整うのが、そのまた翌日の6月27日、ゲインズミルという小渓谷をはさんでポーター軍が南軍の主力と対峙した頃まで延引してしまう。
新たな大攻勢の予兆を前にして、マクレランは、どう行動をしたか。2日に渡って南軍の攻撃があったにもかかわらず、あくまで首都正面に気を取られているマクレランは、ポーターに2個旅団しか送っていない。前線の将軍たちは、マクレランに「手がいっぱいである」と告げ、他の方面への派兵を渋っていた。
この北軍側の情勢判断ミスが幸いして、ゲインズミルで南軍は倍増する兵力をもって、ついにポーター軍を壊走させてしまう。この時、名を挙げたのがジョン・ベル・フッド率いるテキサス旅団で、遅れて到着したホワイティング師団から粛々と前線に出、猛煙を衝いて丘の上の北軍砲兵隊を襲い、つづいて突出してきた連邦第5騎兵隊を壊乱させてしまう切込隊長の役を果たした。
(こののちもフッドは、突撃一辺倒の性格を維持し武名を挙げる。しかし戦争の後半では、それが逆に災いしてか、ゲティスバーグでは左手が動かなくなる重傷を追い、チカモーガ戦では右足を付け根から失い、以後は乗馬や排便も一人ではままならず、アトランタ戦ではシャーマンに手痛い打撃を蒙る完敗的な敗北をし、フランクリン戦、ナッシュヴィル戦と最後まで南軍の消耗戦の陣頭に立つ悲劇的な将を演じることになる。)
10.北軍の撤退開始
ゲインズミルの戦いのあと、マクレランは将兵の反対を押し切ってハリソン泊地への撤収を命じた。では、これまでのリッチモンド攻略のための兵力10万人による3ヶ月余の道路・架橋建設や、砲兵陣構成のための築城工事は何だったのか。セブンパインズの戦いで失った兵の戦死は何だったのか。
病的なほどに後方の兵站線維持と、定石どおりの漸進主義がもたらしたものとしか理解のしようがない。まさか一夜にして北軍が南に消えているとは思わないリー将軍も、索敵にまる一日を費やし、ようやく進軍先を掴んで先手を打つべく追撃を下令したのは29日の早朝であった。
ところが、またしてもジャクソンの進軍が遅れ、その他の師団でもマグルーダー師団の攻撃が緩慢で、30日、北軍は難所であるWhite
Oak 沼の渡渉を完了させた。ここは東西に伸びる浅い渓谷で、北から攻撃するには長い緩慢な斜面を下り、腰まで水に浸かって対岸に渡り、再び斜面を駆け上がらないと、反対側に身構えている北軍と相対峙できない。南軍としては、対岸に渡りきるまでに雨注する砲弾でやられてしまうのは目に見えていた。
ジャクソンは、ここでも奇行をしていて、兵隊には戦わせているのに自分は樹の下で眠りこけ、翌日に目覚めると何事も無かったかのように女房に手紙を書く。部下が走り寄ってきて、近くに渡渉できる橋がある、更にもう一つ作ったから迂回攻撃しようといっても、全く耳をかさなかったという。これも、今に至るまで理由がナゾとされている。
一方マクレランは、後方を防御しつつ大軍を移動させることは長けていて、2個師団を殿軍としてWhite
Oak 沼に配置しながら、補給隊も含めて徐々にハリソン泊地に全軍を撤収し、泊地のすぐ北側にあるマルバーンヒルの丘の麦畑台地上に、徹夜で250の砲門を並ばせた。
ジェイムズ川には2隻の軍艦が浮かび、重砲が支援する傘下のなかに歩兵を収容してしまう戦術であった。この時に使われた最新式のパロット砲は、100ポンド弾を数マイル飛ばすことができた。巨木をなぎ倒し、その下で難を避けている南軍兵を何人か押し潰すなど、当時の水準からすると、とてつもない代物であった。
11.マルバーン・ヒルの戦い
七日戦争を締めくくるマルバーンヒルの戦いでは、南軍は恐ろしいほどの被害を出したが、これは、首都防衛の成功で勢いにのったリー将軍が、珍しく具体性の欠ける指示を出し、それに一種の誤報と連絡ミスが重なった事故であると考えられる。まさか、敵の半分の兵で、ここまでやれるとは思わなかっただろうことは想像に難くない。
リー将軍も、敵の陣形を見て正面突撃の愚を悟り、なんとか弱点を捜して付け込もうとしたが、こういう場合のマクレランの戦術眼はたいしたもので、その場所がない。そこでロングストリートの提案を受け入れて、マルバーンヒルの北側の台地上に140門を並べ、更にマグルーダー師団の砲列から射撃を加えることで、北軍砲兵隊の上に二方向から飛んでくる砲弾を交差させ、その陣形の混乱に付けこむ形で中央からアミスティード兵団を突撃させる、そういう作戦を立てた。
つまり、実際の状況は、敵陣の乱れを眼前に見るアミスティードが、どう攻撃のタイミングを判断するかに委ねられており、「アミスティードが突撃開始をしたら、全員がそれに習え」というものでした。
ところが、後方から南軍の砲隊主力が到着しない間に、北軍の艦砲射撃で幾つか前線に並べた砲がやられ、応戦したアミスティード兵団の一部が前線に出てしまった。しかも、北軍の陣形の変更を、またもや逃げ出す徴候と考えた将兵が、後方のリー将軍に敵の正確な位置について誤報をもたらした。
リーは当然、ここまで敵を押し詰めておいて、防御的戦術は考慮していない。攻撃を前提に作戦変更を思案中に、D.H.ヒル兵団が「アミスティードが突撃開始をしたら、全員がそれに習え」の命令が生きていると思って突出してしまう。ここでリーが止めていれば、南軍は雨注する銃砲弾の餌食にならなかっただろうが、既に大軍を撃退して自信を持ったリーに、部下の報告や兵団の動きのなかに、重大な作戦ミスの前提条件が含まれていると疑うことはできなかった。アミスティードが突撃し、D.H.ヒル兵団が続いているという状況を好機到来と考えて追認した形になった。
ひたすら陣形を維持し、倒れる戦友の間を埋めて突撃してくる歩兵に、通常の鉄球や爆裂弾で1マイル程度を飛ばし、敵が半マイルぐらいに近づけばキャニスタ弾・グレイプ弾(大口径の散弾。ゴルフボールぐらいの鉄球を30発ぐらい鉄筒につめて砲弾として飛ばす)を低空または水平射撃するというのは、日本で言えば「長篠の合戦」を思わせる光景だっただろう。ある北軍の砲隊では飛ばす材料がなくなり、砲車に馬をつないでいる鉄鎖を切って飛ばしたという。歩兵の銃弾も十分にあり、普通は一人40発を携行するところを150発も持っていたとされる。すさまじい火力に晒された南軍は、5千人を超える戦死者・負傷者を台地上の麦畑に晒してしまった。
状況をようやく把握したリーは、後続兵の突撃を抑止ししたが既に遅かった。
損害は主にD.H.ヒル兵団に集中し、D.H.ヒルはのちに「これは戦争ではない。殺戮だ」と日記に記している。しかし、彼自身の慎重さが失われていたことについては、何のコメントも発見できていない。
12.その後の両軍
七日戦争で南軍の蒙った死傷者は20600人、リー将軍が指揮権を掌握して戦闘開始をしてから、僅か7日で全兵力の4分の1を失ったことになる。首都防衛に成功したとはいえ、その代償は大きかった。しかし、リー将軍としても、にわかに編成された11個師団を指揮せざるをえない困難さがつきまとい、奇襲には複雑な兵の進退が要求されるのに、それが実行できない悩みがあった。
リー自身は年齢的に壮年後期ということもあり、短気な部分は当然にあった。しかし、新たな責務を持った自覚がそうさせたものだろう、それぞれの将官を厳しく叱ったり詰問はしていない。それでもディビス大統領への報告書には「普通の状況であれば、北軍は壊滅できたはずだ」と憤懣をぶちまけている。
半島戦役後、リー将軍は軍団の数を7に減らし、無能と判定した旅団長・師団長を降格させ、A.Pヒル師団を自己の直属軍にし、ロングストリートに5個、ジャクソンに2個の軍団を与え、騎兵隊長にJEBステゥアートを起用し、年寄りの将軍を後方の任務につかせ、軍全体の若返りを図っている。
15800人を失ったマクレランの方はというと、マルバーンヒルの戦いに勝利しても進軍はせず、ハリソン泊地に撤収して、またもや5万人よこせ、10万人よこせとリンカンに要求するばかりであった。
そのような状態がつづけば、ワシントン政府はモンロー要塞に小部隊を残して、ポトマック軍を別の方面から別の戦略のもとで使用せざるをえない。動かない大軍をヴァージニア半島に維持していても、ワシントンの正面はがら空き状態がつづき、しかも次の一手がみつからない。
南軍による追撃が遅れた理由の一つに、北軍が置き去りにした負傷兵や集団で降伏した兵数があり、上記数字のうち行方不明者が6千余人も出ているのが、北軍の損害の特徴といえる。
両軍とも損害が大きく、更に最大の敵はマラリアである状態が長くつづき、七日戦争がもたらした南北戦争の様相の変化を、双方の政府要人も軍部隊の将兵も暫くは呑みこめない状況下にあった。北部州にとっては、大軍をもってしてもリッチモンドを陥落させえなかった衝撃は大きく、リンカンはマクレランの更迭を真剣に考えるようになった。
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