会戦日:1862年4月6日〜7日
      この会戦は、まだ半島戦役が本格化していない1862年の4月初め、鉄道の要衝コリンス(Corinth)に進撃しようとしたグラント軍が、テネシー河中流のピッツバーグ泊地付近に駐屯していたところ、奇襲を予期しない油断から突如として正面攻撃にあった会戦でした。 
     奇襲の翌日、別方向から進撃したBuell軍と合体して南軍を壊走させましたが、追撃まではできず、両軍の死傷者数も米国の戦史に見ない未曾有なものであったことから、グラントは「屠殺人」と仇名されて栄光の軍歴が一時的に地に落ちました。もし南軍が司令官の戦死という不遇に合わず、また無闇な突撃を繰り返さずに奇襲による初期効果を十分に挙げていれば、グラントという人物が歴史に名を残したかどうかもわからない、その寸前まで行った戦いです。
     南軍の攻撃発起点となった都市コリンスは、今では人口も少なくひっそりとした田舎町で、かつて鉄道交通の要衝であった面影はありません。シャイロウの戦場までの景観は、平坦な台地に森林に覆われた小丘陵が散在し、土を含んで茶色の水があちこちに小河川を作っていて、馬車や砲門の移動には困難がつきまとったであろうことを窺わせます。


1.会戦の背景
      「流血のカンザス」は、結局は自由州側の政治的圧勝に終わり、同方面の連邦政府軍と北部州の派遣民兵が合体してミズーリになだれ込んだことから、前年8月にはWilson’s Creekの戦いが起き、ミズーリ州は北部の勢力下に入った。
     同じ頃、ミシシッピ河上流域と奴隷州ケンタッキーを、北部の勢力下につなぎとめたいとするリンカン大統領は、ミズーリ軍団長にH.ハレックを任命、北軍は重要都市と河川港湾の占領確保を廻って、南軍の将Albert
     Sidney Johnston(以下、A.S.ジョンストン)と各地で散発的な戦いを繰り広げていた。
     H.ハレックの下で頭角を現した人物がU.S.グラントであり、軍籍に戻るや短期間で旅団長になり、ベルモントその他の要地で戦歴を重ねたのち、ヘンリー要塞とドネルソン要塞を陥落させたことから、第一次マナサス会戦の敗北以来、沈滞気分のただよう北部州全体から一躍脚光を浴びる存在になった。
     ドネルソン要塞の陥落は、既にBowling Greenの戦いで破れ、ケンタッキーからテネシー州の重要都市ナッシュヴィルに主力軍を移していたA.S.ジョンストンにとって大打撃であった。ナッシュヴィルは河川に対して全く無防備であり、事実上、ドネルソン要塞がカンバーランド河下流方面からの軍事的侵入に対する防衛拠点であったからである。
     A.S.ジョンストンは、駐屯兵力2万人をナッシュヴィルから更に後方のMurfreesboroへと撤退させ、チャタヌーガに撤退すると見せて大半の兵力をDecaturへ送り、鉄道を用いてチャタヌーガとメンフィスのいずれにも臨機に兵力を送れる体制をとった。
     メンフィスは、中流域のヴィックスバーグ、河口のニュウーオーリンズと並ぶミシシッピ河に面した港湾大都市であり、テネシー州の南部連合政府は北軍の侵攻の難を逃れてナッシュヴィルから同都市に活動の拠点を移していた。
     北軍の次の攻撃目標がメンフィスであり、その前提条件として、東に位置する交通の要衝コリンスの占領、周囲の鉄道の遮断による兵員輸送の不可能化とみたP.G.T.ボゥリガードは、南部各地からの守備隊の結集を呼びかけ、来るべきグラント軍に対して大兵力で対抗する体制づくりをするため、コリンスにあってA.S.ジョンストンの主力軍と合わせ、3月27日までに4万人の兵力を集めた。
     A.S.ジョンストンは、かつてテキサス共和国の陸軍大臣、ユタ州のモルモン教徒討伐軍司令官、南北戦争開戦時は太平洋軍団の名誉旅団長であり、ディビス大統領の信任もあつく、アパラチア山脈以西の全軍を率いる最高司令官として、南部連合政府の輿望を担っていた。A.S.ジョンストンの主力軍が、チャタヌーガに去っていると思っている北軍司令部は、コリンスに大兵力の集中が行われていることを知らない。


2.北軍部隊の移動
      北西部の北軍はその頃、H.ハレックのミズーリ軍が司令部化するに従い、大きく分けて3つの軍団に派生してきていた。すなわち、J・ポウプ(Pope)のミシシッピ軍、グラントの西部テネシー軍、Buellのオハイオ方面軍である。
     H.ハレックは後年、リンカンに招かれワシントンで軍政長官にまでなるが、典型的な事務官僚であって、絶えず司令部から全軍の掌握をしたがり、ドネルソン要塞陥落の国民的栄誉を背景に現地司令官として独立した権限を要求するグラントと対立をしていた。
     北軍の次の攻略目標コリンスへの進軍にあたり、H.ハレックはグラント軍とBuell軍との共同作戦により、十分な兵数で対処するよう指示し、先発したグラント軍はテネシー河を遡行して東岸の町サバンナに前衛部隊を駐屯させ、のち3万5千人が駐屯する混雑と不便、衛生面の問題から更に南側のピッツバーグ泊地付近に兵の大半を展開させた。
     ここを軍営地として良好と見定め、本格的作戦開始までの駐屯と新兵訓練の場としてグラントに薦めたのはシャーマンである。
     ピッツバーグ泊地は、朽ち果てたような丸太小屋の倉庫が一つあるだけの荒れ地である。コリンスに直接つながる街道を扼し、南軍の攻撃は考えられるものの、 北側は東西に流れるOwl Creek とSnake Creekで防御され、南は Lick Creekで防御され、広い開墾畑が森のなかに散在していて、大軍の宿営にはちょうどいい、というものであった。
     シャーマンもグラントも全く南軍の攻撃を予期していなかったと見え、一切塹壕を掘っていないし、索敵も宿営地近くに歩哨を立てるのみで、遠距離に偵察隊を出すなどをしていない。Buellの派遣軍2万5千人がピッツバーグ泊地に南接したHumburgに到着するのを待ち、それから両軍相そろってコリンスに進撃する方針であった。


3.南軍の作戦
     一方、南軍にとっては、グラント軍とBuell軍が合体しないうちに、可能な限りの大兵力でグラント軍を叩く必要があった。
     ボゥリガードの呼びかけで、ニューオーリンズからはD.Rugglesの5千人、モービル湾からはB.ブラッグが1万人、セントルイスへの反攻作戦用にL.ポークがColumbusに駐屯させていた8千人が駆けつけ、A.S.ジョンストンの兵力と合わせると4万人に達していた。このほか、ミシシッピ河を隔ててヴァン・ドーンの兵力2万人がいたが、ヴァン・ドーンはA.S.ジョンストンに協力せず、既にアーカンソーとミズーリの州境付近で戦われたPea
     Ridgeの会戦で破れているにも関らず、独自の行動を望み非協力方針でいた。
     3月29日、Buell軍の前衛がDuck河付近(直線距離70マイル、行軍日数3日ないし4日の距離)に現れたとの報に接したA.S.ジョンストンは、もはや一刻の猶予もないと判断、ヴァン・ドーンの支援抜きでの奇襲を決意し、ボゥリガードと図り部隊編成と行軍計画の策定にかかった。
     軍団の名称はミシシッピ軍。総司令官はA.S.ジョンストン、副官はボゥリガード、参謀長はB.ブラッグ。B.ブラッグは、戦闘開始とともに第2軍団の軍団長として行動する。
     第1軍団は4個旅団編成で9千人。軍団長は宣教師で将軍のL.ポーク。第2軍団は6個旅団編成で1万6千人。軍団長B.ブラッグは参謀長を兼任。第3軍団は3個旅団編成で7千人。軍団長はW.J.ハーディ。予備軍団の3個旅団7千人はブキャナン政権下で副大統領だったJ.ブレッキンリッジ。
     4月1日、A.S.ジョンストンは第1軍団、第3軍団に進軍を命じ、後続の第2軍団には、北軍がHumburgより更に南のEastPort付近に現れた場合の出撃に備えさせた。
     A.S.ジョンストンの作戦では、大兵力による奇襲効果に加え、北軍左翼に兵力を集中してピッツバーグ泊地と河川の交通を遮断し、上陸兵をOwl川、Snake川に押し付け逃げ場を失わせて叩くというものであった。
     4月4日、翌5日早朝からの攻撃を期して、彼は麾下兵団の各連隊で読み上げるよう指示し、次のような激文を飛ばしている。

       「ミシシッピ軍の兵士諸君!私は諸君の国に対する侵略者との一戦を期して、諸君を行軍させている。諸君が有しているような、戦う男にふさわしき決意、律心、勇気、死ぬも生きるも価値ある全てそのために、諸君は進軍をしている。諸君を従属させ、諸君の自由、財産、名誉を奪わんと送られてきた土臭き傭兵どもに、ほかならぬ決定的勝利をあげるためである。
       この戦いに何がかかっているか、覚えておいて貰いたい。諸君の母、妻子、姉や妹らの行く末が、諸君の双肩にかかっている。戦いに敗れれば、この広大で素晴らしき豊穣の土地、幸せな家庭の数々が不毛の廃墟と化すだろう。
       8百万人が持つ希望の視線が、諸君に注がれている。諸君は、その家系にふさわしい働きをせねばならぬ。この戦いに、いまだどの時代にも見られない、名誉ある献身をしている南部の女性らにふさわしい働きをせねばならぬ。
       これら、我らをして果敢なる行動へと駆りたてずにはおかない数々のものを胸に、 また、神は我らと供にあるを信じ、諸君の将軍らは断固たる決意のもとに、諸君を勝利の戦闘へと導くものである。」


4.行軍の遅れとシャーマンの不覚
     ところが、ボゥリガードが考えた行軍予定表は、ほとんど、その通りにならなかった。上記の檄文を飛ばした4日の午後に降り出した雨は道をぬかるませ、砲門と馬車の移動を困難にした。
     軍団の移動は一旅団だけでも最長3マイルにも伸びる。コリンスの町から出るだけでも混雑を極めたのに、行軍序列を間違え、狭い交差をふさぎ、出発日の指令を誤るなどの混乱が続出し、たった一日ないし一日半の行軍距離しかない前線にハーディの第3軍団が到着しても、L.ポークとB.ブラッグの軍はまだ相当に後方にいた。 これでは、全軍がそろっての大兵力による一斉突撃はできないばかりか、ハーディ軍が北軍の斥候や前線哨戒兵に合えば、奇襲効果は失われてしまう。
     加えて、5日の未明から早朝にかけて雷雨になったことは、馬車、砲門の移動を著しく困難にし、攻撃予定を一日遅らせる結果となった。
     既に奇襲効果は期待できなかった。南軍兵は湿った銃身を乾かすため銃を撃ちまくり、指定された場所に野営を組むためにドラムを鳴らすなどをしていたからである。
     しかし、斥候を出せば必ずわかるはずの前線の状況や、散発的に行われる哨戒兵どうしの撃ち合いの報告を受けても、シャーマンは正面に大兵力が存在するとは信じていなかった。5日、シャーマンはこうグラントに書き送っている。
     「2マイル先に敵の小部隊がいます。しかし、こちらの戦線は至って静かなもので、攻撃みたいなものがあるとは、私は予想してませんね」
     2マイル先の「小部隊」はハーディの第3軍団7千人、全軍の前衛となる突撃隊であった。グラントも、各地の散発的な撃ち合いの報告を受けていたが、シャーマンの報告で安心をし、ときどきピッツバーグ泊地に視察にきては、宿所となっているサバンナに引きこもっていた。


5.完全に裏をかく
      次々に上陸する北軍兵が駐屯する台地の上には、コリンスに通じる主街道と、それからやや東に外れた東街道があり、それを北西から南東に横切る形でPurdy-Humburg街道が走っていた。この街道の南側が、万一南軍が攻めてきた場合の前線となり、北軍右翼に位置するコリンス主街道を敵の主攻方向と見定めて前線にシャーマン第5師団を配置していたのに、そのシャーマンが、まるっきり攻撃はないと信じきっていたのだから、あとから考えれば、これだけ南軍がもたついても事前の発見ができなかった、その責任は重いとも言えた。恐らく、雷雨によって斥候の動きも鈍り、南軍はぬかるむ道に難儀をしながらも、雨と霧に隠れて北軍前線に近づくことができたのだろう。
    しかし、前線と想定しながらも、単に場所がないといだけで、未訓練の新兵たちをシャーマン軍の左翼に次々と並べていった無神経さも、いかに楽観主義が北軍全体を支配していたかを示している。
     主街道の南を占位するシャーマン軍は、シャイロウ教会と呼ばれる付近の開拓民たちの集会場を指揮所にしていた。教会といっても粗末な丸太小屋であるが、その名は「平和な所」を意味し、のちに緒戦における激闘の場ともなるのだから皮肉なものと言える。
    5日には散発的な小競り合いまで起き、数人の南軍兵が捕らえられてシャイロウ教会に連行され尋問を受けているが、「全軍そろって近くにいるんだぜ。明日にゃ、あんたらは川へ追い落とされて地獄行きだ」という言葉を、鋭敏なシャーマンがどうして警戒しなかったのか、不思議のうえにも不思議を重ねた事象であったことは間違いない。
     一日遅延して攻撃予定日となった6日早朝、ボゥリガードとB.ブラッグは「奇襲効果」が減殺されていることを心配したが、A.S.ジョンストンは攻撃しかないと決意していた。既に3日ぶんとして携行した兵の糧食は尽きかけ、引き下がればBuell軍はグラント軍と合体してしまう。敵を目前に退却しても発見され追撃を受けることは避けられず、それは全軍の士気をくじくことにつながり、その敗北主義の心理効果はミシシッピ軍だけに止まらないだろう。
     既にシャーマン軍の左翼からは威力偵察隊が出て、前線では小規模の戦闘まで起きていた。
     この日、久々の晴れを迎え、朝日は真っ赤に染まり、進軍する南軍の将官は口々に「アウステルリッツの戦場にあった陽光のようだ」と話したという。アウステルリッツの会戦はナポレオン軍が完全勝利をした戦いであり、南軍の将官はこの日の必勝を胸に描いていた。
    6時40分頃、突撃の陣形を組むため、将軍らを集めての最終会議を終えたA.S.ジョンストンは、栗毛色の愛馬「ファイアー・イーター(火を食う者)」にまたがり、「今宵、我らが軍馬にテネシー川の水を飲ませる」と大音声を発し、予備軍団を率いるボゥリガードを後方に残し、自らは前線の督戦へと赴いていった。
    「今日を征服せよ、さもなくば滅びよ」
    と道すがら、出会う将官の一人に語ったという。


6.「蜂の巣」の激闘
     シャーマン軍の左翼にはJ.マクラーナンの第1師団、その更に左翼、といっても前衛に近い場所にはB.プレンティスの第6師団が控えていた。第6師団は未組織な旅団まで持つなど新兵部隊であったが、それだけに前線の動きが心配な将官があり、威力偵察隊も南軍のただならぬ動きを察知した同師団のピーボディ旅団長が独断で出したものであった。
     偵察隊は、コリンス主街道が東街道と分かれる付近の「フレーリィ開拓地」付近で、ハーディ軍団の宿営地に転がり込んでしまい、たちまち銃撃戦が起きて、その音で朝食をとっていた北軍兵はコーヒーカップや皿を放り出し次々に銃砲へと駆け寄っていった。
     ピーボディ旅団長も銃撃音とともに可能な限りの手元の兵力で前線に突進して戦い、やがて身に数ヶ所を被弾して宿営に戻り、上官のB.プレンティスを捜しているあいだに頭を撃ちぬかれて戦死した。
     B.プレンティスの兵団は、東街道を後方に下がり、「スペイン開拓地」の南に三千人規模の銃砲列を敷き応戦をしたが、南軍のグラッデン旅団の波状攻撃に耐えられず、間もなく退却、新兵であったため遮二無二逃げるところを撃ちまくられ、ひどい損害を出した。しかし、グラッデン旅団もオハイオ第5砲兵大隊、ミネソタ第1砲兵大隊の計12門の砲撃に対して損害を省みない突撃を繰り返したため、指揮官グラッデンは左腕をもぎ取られて数日後に死亡、やがて後続部隊の到着まで攻撃の矛先も鈍った。
     プレンティス兵団の崩壊は、その右翼に位置するシャーマン軍の崩壊に直結した。シャーマンの前衛はたちまち崩れ、まもなくシャイロウ教会の南、「リア開拓地」に視察に赴いたシャーマンは「何と、攻撃されているぞ」と驚愕の悲鳴をあげたその直後、右側にいたアーカンソー第15連隊が至近距離で放った射撃を受けて従兵はその場で死亡、シャーマン自身は散弾の一発を右手のひらに受ける盲貫銃創を負った。
     一斉射撃を浴びても奇跡的に生き延びたシャーマンは自軍の一斉退却を触れまわり、はるか後方の「ピッツバーグ泊地街道」付近まで、砲兵と歩兵の射撃の繰り返しをしながら、いっさい恥も外聞も構わないような撤退をしていった。
     なぜなら、シャーマン軍の撤退は、その後方左翼に位置するマクラーナンの第1師団の即崩壊を意味し、マクラーナンの師団もまた、シャーマン軍の撤退に引きずられる形で「ピッツバーグ泊地街道」へと撤退をしていった。
     崩壊してくる前線部隊を、Purdy-Humburg街道付近に兵を繰り出して支えたのは、マクラーナンの左翼に位置していたS.ハールバトの第4師団、さらにはピッツバーグ泊地付近に上陸を終え駐屯していたWHL.ワレスの第2師団であった。両軍団とも森林や原野を駆け抜け、ばらばらに逃れてくるプレンティス師団の新兵たちを受けて戦線の立てなおしに躍起になっていたが、やがて昼過ぎ頃、Purdy-Humburg街道からやや北に引いた位置に銃砲列を敷くことに成功した。
     一人あたり百発の銃弾を携行して進撃した南軍も、銃弾は欠乏し早朝からの戦闘に疲れ、各部隊が入り乱れてしまったうえに次々に指揮官を失い、後方からの兵員と弾薬の補充、指揮系統の再確立が必要になり、そのことが北軍に戦線立てなおしの時間を与えてしまったのである。
     のちに戦闘の激しさから「蜂の巣」と呼ばれた地域の北軍の陣形は、東街道をはさんで右翼陣がWHL.ワレスの第1旅団と第3旅団、正面には「ダンカン開拓地」が開け、そのすぐ南縁に沿った森林には、プレンティスの残存部隊が位置していた。この東街道がなかを通る森林の反対側は、S.ハールバトの第4師団がWHL.ワレスの第2旅団の支援を受けて兵力を倍化させ、「綿花畑」と「ディビス開拓地」を前にして、森林の縁に沿って荷車の移動が作ったわずかな窪地のなかに控えていた。塹壕のような深いものではなかったが、ともかくも浅い窪状の道であり、横方向の移動には便利であった。
     さえぎるもののない開けた平坦地を歩けば、それだけ攻める側は砲撃に晒されて損害が増える。北軍両部隊の間と外側は森林がふさぎ、後方も森林のなかに引き下がる余地を残していた。
     やがて始まった南軍の波状攻撃では、ボゥリガードとB.ブラッグが呵責のない突撃を命じ、南軍側に恐ろしいほどの被害を出していった。例えば、B.ブラッグ指揮下のギブソン旅団ではB.ブラッグが3度まで突撃を命じ、ほとんど全滅してしまったほどである。両軍が放つ銃砲弾は下生えの草と摩擦を起して平原に火災を起こし、双方とも煙のなかで敵軍の姿も定かに見えず、銃砲の黄桃色がかった発火をもって敵位置と見定め射撃を繰り返していた。
    本来の主攻方向であるはずの北軍最左翼、テネシー河に近い位置からの攻撃は、どうであったか。こちらは早朝からシャーマン軍の一部、スチュアートの第2旅団が警戒に当っていたが、A.S.ジョンストンが「蜂の巣」前方にあった兵団からチャルマース旅団、ジャクソン旅団を引き抜いて攻撃させ、新兵の集まりであったスチュアートの第2旅団はたちまち撃破されて「蜂の巣」の東端付近まで攻めこまれた。
     WHL.ワレスはJ・マッカーサーの第2旅団、S.ハールバトはJ・ローマンの第3旅団を自軍から引き抜きスチュアートの支援に送ったが、激戦のすえに3時半ごろには退却を余儀なくされた。
     その少し前、A.S.ジョンストンは「蜂の巣」の東端付近で督戦中に顔面が蒼白になり、ふらふらとして落馬しそうになり、同行していた前テネシー州知事I.ハリスが気がついて他の将官とともに抱えて鞍から降ろすと、木陰に休んでいる間に息を引き取った。右足の膝下に弾丸が食い込み、動脈を破裂させたために長靴のなかは血でいっぱいであり、出血多量で死亡したものと判明した。


7.グラントとボゥリガードの戦い
     「蜂の巣」の戦いで南軍の中央攻撃軍の大半をひきつけ、本来の主攻方向で総司令官が戦死し、一時的にも指揮系統に空白が生じたことは、グラントに体制立てなおしの余裕を与えた。
     グラントはこの日、砲音を聞いて前線に駆けつけ、シャーマンに出会うと意外にも全く叱らず、「よくやった、WHL.ワレスに前へ出るよう伝えよう」と言って去り、ピッツバーグ泊地の崖を登ったすぐ台地の上に、あらゆる砲を並べて最後尾の生命線を引いていた。
     更に4マイル北のクランプ泊地に駐屯しているLewワレスの4千人の部隊に、すぐに戦場に駆けつけるよう伝令を度々走らせ、接近しているBuell軍の前衛部隊に一層の急行をするよう連絡していた。
     Lewワレスは昼前、船から下りてきたグラントに、「自分から連絡があればシャーマン軍の右翼に出るよう」言われていたが、その後しばらくは連絡がなく、伝令を受けたときは既にシャーマン軍が後方に下がっており、また全く遠回りの道を選んだために、この日は夕刻まで戦場に到着できなかった。
     「蜂の巣」ではWHL.ワレスが重傷を負い間もなく死亡、プレンティスが代わって指揮を取っていたが、南軍Rugglesの砲兵大隊の砲撃で陣を乱されたところにG.Maneyの旅団に突っ込まれ、B.フォレストのテキサス騎兵隊に空隙を衝かれて前線が崩壊、更にコリンス主街道と川沿いのHumburg街道を進む南軍が後方で出会い、ぐるりと包囲されたことから6時頃までに全ての北軍が降伏した。
     ボゥリガードは、その後、幾つかの兵団を組織してグラントの「生命線」に向けて進撃させたが、やがて夕闇が迫るなかで作戦を中止させ、更に攻撃を図るB.ブラッグを落胆させた。
     ボゥリガードは、ピッツバーグ泊地付近の騒ぎを聞き、既にグラント軍が対岸に撤退を始めていると勘違いし、翌日にまだ北軍兵が残っていれば、集中砲撃を加え河に追い落としができると信じ、シャイロウ教会のなかで将官たちと夕食をとったのち、ぐっすりと眠ってしまった。不可思議にも、前日の夜、捕らえられた南軍兵の言葉をシャーマンらが信じなかったと全く同じ現象が、捕らえた北軍兵、それも第6師団長プレンティスの言葉について起きていた。
     「Buellの援軍が対岸に来ているんだ。明日になれば、あんたらは簡単に踏みつけだぞ」
     なぜ、これをボゥリガードを始めとする南軍の将は一顧だにしなかったのか。明らかに、Buellの進軍方向について、間違った斥候の報告を受けていたに違いない。
     「蜂の巣」で北軍部隊が降伏を始めている頃、Buell軍の前衛ネルソン旅団は、サバンナで船を待つのももどかしく、土地の案内に詳しい医者を前にたてて沼地を進み、ピッツバーグ泊地の対岸に出ると付近の小船で小部隊ごとに渡渉していた。
     ネルソンは猛将と言われるほどの人物であり、前線から全てを投げ出して逃げてきて、崖下でわなないている兵たちが数百人ほどもいるのを見ると、「この、腰抜けの腐れ野郎どもが」とわめき、道を空けるよう威嚇射撃させて進んだという。
     グラントの「生命線」付近に展開する両軍の兵は、一晩中、10分ないし15分おきに起きる軍艦タイラー号、レキシントン号からの砲撃に就寝を妨げられていた。南軍兵は身の危険があるだけにひとしおで、深夜に降り始めた小雨に濡れ、負傷しても手当てがされず野原に放置さたままの兵のうめき声は、砲撃音以上に眠りをさまたげた。
     「蜂の巣」の東端付近には今も「血の池」とよばれている場所があり、これは負傷した多数の兵が水の飲みたさに這っていき、そこで事切れたために池の水が真っ赤に染まったことから、そう呼ばれているとのこと。
     この日、一日中「行方不明」だったLewワレスの兵にBuell軍を加え、2万2千人の増員を受けたグラントも、翌日の戦いの陣配置にあわただしかったが、たまたま野戦病院が司令部のそばであったため、手足をのこぎりで切断する際の悲鳴がひどく、表へ出て樹の下にうずくまって寝たという。


8.南軍の撤退
      翌日早朝から始まった戦いについては、あまり述べることがない。なぜなら、両軍とも作戦などほとんどなく、力と力のぶつかり合いで押しまくっただけで、前日の戦いで兵力を損耗していた南軍が、増員していた北軍にPurdy-Humburg街道付近まで撤退を余儀なくされ、全軍の崩壊を恐れたボゥリガードが午後2時半過ぎに撤退を全軍に通知した、ただそれだけのことだからである。
     北軍の右翼はLewワレスとシャーマン、中軍はマクラーナンとS.ハールバト、左翼はBuell軍であり、最左翼のネルソン旅団は未明から進撃して午前7時頃には早々とチャルマース旅団を撃破し「蜂の巣」の前日位置を回復した。
     疲労の色濃いグラント軍に代わり、Buell軍からM.マコックの第2師団、T.クリテンデンの第5師団の左翼から前面出て東街道を進み、たちまち前面に位置した南軍のアンダーソン兵団、ブルースのルイジアナ砲兵大隊を撃破し、昼までに「ダンカン開拓地」を超えてPurdy-Humburg街道へ出た。
     前日にさっさと撤退し兵力を温存していたシャーマン軍は、コリンス主街道を雲霞のごとき兵で進んだ。
     この日、南軍がどれだけ戦力が不足していたかは、シャーマン軍の前面に位置したクレバーン率いる第3軍団第2師団の兵数を見れば歴然としている。前日の早朝、2700人で進撃を始めた同旅団は、このときまでに800人に減っていた。
     しかし、二日間を戦ったグラント軍の側に損害と疲労も大きく、シャイロウ教会の奪回後、グラントは追撃を命令しなかった。
     より前面に出て追撃の色を見せたシャーマン軍前衛に、B.フォレストが突撃して大立ち回りの末に単騎脱出したのは、このときであった。

(余談)

      ネイサン・ベッドフォード・フォレスト(1821-1877)は、南北戦争という時代環境が生んだ一人の豪傑であり奇人でもある。家貧しく多数の兄弟を養うために奴隷の売り買いで一躍産をなした。南北戦争の開戦当時が40代にさしかかった頃だから、軍人としては遅いデビューだが、軍事訓練はほとんどないに等しいのに、天才的戦術で窮地を度々切りぬけた。
     ドネルソン要塞がUSグラントの北軍に囲まれたとき、敵のわずかな隙を見て脱出を試み、部下の騎兵全員と歩兵200人を駄馬に乗せ、氷の浮く厳寒の川を腰まで浸かって渡り逃亡に成功した。
     シャイロウの戦いでも戦意は旺盛で、シャーマン軍の一部が追撃に移っているところで、フォレストの一隊がどういうわけか残っていた。繁茂している潅木にシャーマン軍の兵士が足を取られているのをみて、攻撃命令を出して突撃した。(普通はこれ幸いと退却する。)
     しかし、部下がついてこなくて自分一人だけになった。周囲は北軍兵士ばかりになってしまい、しばらくはサーベルで戦っていたが、ついに一発背骨に達するほどの弾をくらってしまい、やむなく自陣へ引き上げていった。その際、目に付いた北軍兵士一人の襟を掴んで馬上に引き上げ、射程距離外に出て放り出すまでの間、飛んでくる弾よけのタテにして逃げた。
     この後、彼は少数の騎馬隊を率いて北軍の兵站線を度々襲い、差し向けられた討伐隊も返り討ちにし、奇襲で一旅団をまるまる捕虜にするなど武名を上げ、シャーマンをして「一万人の兵を失い、国家財政を傾けてもヤツを捕まえるべきだ」と言わしめるほど、北軍を悩ましつづける。


9.バランスシート
(単位:人)
参加将兵 戦    死 負    傷 行方不明  合   計
北  軍  65085 1754 8408 2885  13047
南  軍 44699 1728 8012 959 10699
(シャイロウ国立戦争記念公園の発行資料による)

10.その後
      シャイロウの戦いは、単一の会戦としては米国人が経験したことのない未曾有の人的損害を出した戦いとして、南北戦争の前途の多難さを予感させた。
     午前中の早い時期に戦場におらず、終始敵の攻撃はないと楽観視していたグラントへの批判は当然に起きたが、まずは11日にH.ハレックが戦場に現れ、全軍の指揮をとるという具体的な形で現れた。
     グラントは干され、軍籍離脱も口にしたが、シャーマンに説得されて思いとどまった。しかし世の批判、なかでもグラントの戦歴をねたむH.ハレックの批判に耳を貸さず、グラントの戦場での危機に対する骨のある対処の仕方を喜び、高く評価していたのは大統領リンカンであった。
     H.ハレックは、いざ現地軍司令官になると臆病なぐらいの慎重さを見せ、コリンス進撃に際しては10万人の兵で毎日塹壕を掘らせながら進み、わずか22マイルの距離を1ヶ月かかってコリンスに到着すると、そこは既にボゥリガードにより南軍はもぬけの殻になっている始末であった。これに業を煮やしたリンカンが、H.ハレックをワシントンに呼び軍政長官に任命したことにより、グラントは再び大軍の司令官に返り咲くことができ、ヴィックスバーグへ向けて進むミシシッピ軍の編成へとつながっていく。
















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