会戦日 1864年7月20日〜9月2日
1.政略的背景
     開戦から3年目にあたる1864年の夏、大統領選を11月に控えて北部州は多大な犠牲のまえに戦争に倦んでいた。グラント率いるポトマック軍はウィルダネスの戦い、スポツェルヴェニアの戦い、ノース・アナ川の戦い、コールド・ハーバーの戦いと、リー司令官の機略の前に4戦4敗のままリッチモンドの東に莫大な血の犠牲を払って迂回し、かつての半島戦役とほぼ同じ位置に駐屯軍を展開させていた。
     リッチモンドの堅陣に立籠る北ヴァージニア軍を破れず状況に窮したグラントは、その南のピータースバーグから迂回しての攻略も試みたが、ここでもボゥリガードが築いた堅い防衛線をどうしても破れない。6月の半ば、速攻による作戦は頓挫してしまい、ついに都市包囲戦にもつれこみ、8月に至っても戦況に変化をもたらすことができず、正面突破も迂回攻撃も不成功に終わった。
     もし、共和党からの候補者リンカンが、民主党からの候補で前ポトマック軍司令官マクレランに敗れれば、厭戦気分を背景に南北和平が実現する恐れがあり、ディビス大統領とリー司令官は、まさにそれを狙って防御を主体とした作戦を取りつつ時間を稼いでいた。
     リンカンにとって厭戦気分を振り払うには、軍事的大勝利をあげる必要があり、大統領選までにリッチモンドを陥落させる見込みがたたない以上、世論の目は自然にアトランタに向っていった。


2.戦略的背景
     チカモーガ、チャタヌーガの戦いののち、北軍はようやく後方ナッシュヴィルに大規模な補給基地を確保し、ジョージア州への侵入の体制を組みつつあった。次の戦略目標は南部の心臓ともいうべき、兵員と物資の一大中継地である鉄道交通の要衝アトランタの占領であった。
     チャタヌーガでの山上籠城戦に破れ、軍紀・士気が極端に低下していた南軍を立て直したのはBraxton Braggに代って司令官となったJoseph Johnston(以下、J.ジョンストン)であった。
     進撃する北軍はシャーマンの11万3千人。砲門は254門。対する南軍は4万5千人、砲門は138門。これにL・ポーク軍が急きょ加わり、南軍は約6万人の体制になった。
     J.ジョンストンは、チャタヌーガからアトランタまで、南軍の補給線となっている長大な距離の鉄道をどこかで遮断されれば、退路を立たれて南軍は破れることを知っていた。そこで、北軍の迂回の動きを先回りする形で撤退を繰り返し、シャーマン軍の一部が油断して進んできたところを叩く戦術をとった。
     その具体的な現れが、6月27日のケネソー山の戦いであった。アトランタの北西20マイル地点に、ラクダの瘤のように突き出た双子山を、防備が手薄と思って進んできた北軍前衛に待ち伏せ攻撃を仕掛けて手痛い打撃を与えていた。(L・ポークは、この戦いが始まる直前、北軍の陣営を望見中に飛んできた砲弾に吹き飛ばされて戦死。跡形も残らなかったと言う。)
     しかし、アトランタ防衛を何よりも重要と考える大統領ディビスは、こうしたファビアン(遅滞)戦術を快く思わず、より積極的攻撃を主張するJ.ジョンストンの部下J.B.フッド、また督戦のため軍監として送りこんだBraxton Braggの意見に耳を傾けるようになっていった。


3.両軍の作戦
     シャーマンは、ジョージア州への進軍に際し、南軍を支える「国家総力戦」の意味を考えるようになり、南部民間人の抗戦意思をくじかない限り平和は訪れないと主張して、史上初めての都市攻撃の正当性を、新聞や知人への手紙で訴えるようになっていた。
     「どんな貧困も逆境も、彼らの(南部連合への)忠誠心を揺るがすことはできないようだ。黒んぼどもはもう所有できない。富も贅沢も失い、持っているカネも紙くず同然で、飢餓が迫っているというのに、少数のくたびれた例外者を除いて、大多数の民衆は戦い抜くつもりでいる」
     そこで、暴力的な方法で屈服させるしかないと考える。
     「俺は何百万人でも殺す」「戦争は戦争だ」「分裂したままの平和はない」「戦争をやめればアメリカは沈み、全人類から軽蔑される」等々の言葉を並べる。
     そして、南部が戦争を始めた以上、それに見合う悲惨さは南部が味わって当然であるとし、「これまでのことは、単なる前哨戦だ」と言い放った。
     アトランタの北西を流れるチャタフーチー(Chattahoochee)川を、上流3地点に架橋した舟橋で北軍がいっせいに渡渉したのが7月9日のことであった。
     土塁・稜堡・逆茂木などの堅塁で構成された、延長12マイル余の防衛線に周囲を守られているアトランタは、市内への物資輸送を担っている鉄道を遮断し、砲撃を加えながらの攻城戦の形にならざるを得ない。 
     そこで最も上流のRosswellの地点からは、マクファーソンのテネシー軍(第15軍団、第16軍団、第17軍団)が渡渉し、次にSoap Creekに近い地点からは、スコフィールドのオハイオ軍(第23軍団)が渡渉し、この二つの軍が迂回して市を包囲する作戦がとられた。これに対し、最もアトランタに近く、北西を流れるチャタフーチー川に、東からピーチツリー川が流れ込んでいるあたりから渡渉する正面攻撃軍が、G.トーマス率いるカンバーランド軍(第4軍団、第14軍団、第20軍団、騎兵隊3個師団)であった。
     J.ジョンストンは、味方に倍する敵に対し互角以上に戦うには、幾つかの方向に行軍を開始したときを狙いすまし、後方との連絡が不充分なまま部分的に出てきた相手を叩くのが最善と考えていた。(なお、この戦術思想はセブンパインズの戦いでも同じであった。ケネソー山の戦いでも同じである) 


4.ピーチツリー・クリークの戦い
     ところが、J.ジョンストンは、この作戦実施まで司令官でいることはできなかった。7月17日、突如として陸軍司令部から通知を受け解任されたのである。
     これまでにも、兵員の補充や被服・軍靴・食糧などが決定的に不足している窮状を訴えるJ.ジョンストンに対し、それらは十分に足りているので積極攻撃が必要だとするフッドの、ディビス大統領宛ての事実無根な讒言はあった。しかし、それに加え、B.Braggの「あいかわらず従来どおりの作戦」という報告が人事に響いていた。後任には積極攻撃派のフッドが選ばれた。
     フッドは、既に左手が動かせず、右足を付け根から失っている。北軍への恨みが募るフッドは、攻撃性が欠ける上官について讒言はしていたが、いざ自分が司令官になってみると、J.ジョンストンに解任命令を黙殺して指揮を取り続けるよう懇願していたらしい。しかし、問題はディビス、B.Braggとの間の軋轢にある以上、J.ジョンストンの、ならば勝手にせよ、との意思は変りようもなかった。
     彼はこう言っている。
    「ディビス氏は、他人なら滅多にやらないようなことでも、自分なら何でもできると思っているんだよ。神様ができないようなことでもね。例えばBraggみたいな兵隊を作るようなことさ。結果は知っているよね。できっこないさ」
     J.ジョンストンの計画では、G.トーマスのカンバーランド軍が十分に渡河しないうちに稜堡内から出撃して出鼻をくじくというものであったが、同じ計画を採用したフッドは、部隊間移動を調整しているうちに日延べをしてしまい、19日の攻撃日が実際には20日の4時頃になってしまった。自身の作戦予定からも4時間を経過している。
     その頃になると、カンバーランド軍の主力、J.フッカーの第20軍団は3個師団全部が渡河、右翼にパーマーの第14軍団のうち第2師団マコック旅団を従え、左翼にはハワードの第4軍団のうちニュートン率いる第2師団を並ばせ、アトランタの真北から隊列を組み漸々にピーチツリー・クリークを渡ってきていた。
     近づく南軍を望見した北軍が、次々に小丘のうえに砲兵隊を置き、小塹壕も掘ることができているところに、南軍守備隊からはL・ポークを引き継いだA.Pスチゥアートの兵団が左翼、ハーディの兵団が右翼になって突撃した。双方押しつ戻しつの激戦のなかで北軍の銃砲の威力はものをいい、南軍をアトランタの稜堡陣のなかに押し返すことに成功した。これには、南軍側にも迂回した北軍による新たな危機が迫っていて、そちらに部隊移動せざるをえなかったのである。
     このピーチツリー・クリークの戦いでは北軍側の死傷者1900人、南軍側のそれは2500人と記録されている。


5.「禿山」の戦い
     アトランタ市の中央を東西に横切るジョージア鉄道を挟んで、南東方向の僅かな距離に通称「禿山」といわれる場所があり、そこからは市内を俯瞰できた。J.マクファーソン率いるテネシー軍は、ブレアの第17軍団のうちリゲット率いる第3師団が先陣としてここに殺到、後続部隊とともに市内へ砲撃を加えていた。
     最初の砲弾は女児を殺し、その両親にも傷を負わせ、続いての無差別的な着弾の威力に、市内では安全な場所を求める市民が悲鳴とともに道に出て逃げ惑い大混乱をきたした。
     シャーマンはジョージア鉄道を挟んで「禿山」とは反対側の2階建て民家を接収、戦闘指揮所としていた。
     ピーチツリー・クリークの戦いから2日を経た22日の昼少し前、テネシー軍司令官J.マクファーソンはシャーマンと指揮所で会い、市内で煙突から黒煙を出している鉄工所に対し、新たに到着した32ポンド長距離砲の砲撃許可を求めていた。J.マクファーソンは35才、開戦以来シャーマンとグラントの近くにあり、ヴィックスバーグ攻撃でも有能さを示し、二人の上官からは実の弟のように可愛がられていたという。
     ヴィックスバーグ戦のさなかに休暇をもらい、ボルティモアで婚約者を見つけ、アトランタ戦のあとは結婚式をあげるばかりになっていた。早く破壊すべき建物は破壊して、ボルティモアへ直行したかったに違いない。
     シャーマンが砲撃許可を与えると間もなく、南方から銃砲音が聞え、南軍のハーディ兵団が4個師団を率いて猛攻を加えてきた。この日、北軍の砲兵列の南方ががら空きとみたフッドが、ハーディ兵団に迂回攻撃を下令し、北軍の陣列の乱れに乗じて、チータム兵団(もとのフッドの兵団)が西側からの正面突撃をする作戦を立てたのである。
     しかし、フッドが得た斥候の情報と相前後して、ハーディ兵団が到着する頃には、同方面の手薄を感じたJ.マクファーソンが既に第16軍団のうちSweeny率いる第2師団を配備しており、ハーディの右翼隊であるウォーカー師団、ベイツ師団との間でたちまち激戦になっていった。ハーディの左翼隊、クレバーン師団とマニー師団は「禿山」に陣取る北軍のリゲッツ師団に南方から猛突撃を加えたが、リゲッツの兵は砲射撃で支え、前面に出たG.A.Smithの歩兵旅団が多大な犠牲を出しながら堅く支えた。
     それでも、北軍のリゲッツ師団とSweenyの第2師団との間には次第に間隙が生じ、そこにクレバーン師団が割りこんでゆく形勢になりつつあった。その頃、おりしも前線からの知らせを受けたJ.マクファーソンが、従兵一人を伴って視察に訪れていた。
     マクファーソンはクレバーン師団の兵と道を隔てて対峙してしまい、女性に対するように帽子を脱いで一礼をすると、脱兎のごとく馬首を廻らし森へ逃げこんだ。すると、その直後、飛来した一発の銃弾が心臓近くを撃ち抜き、マクファーソンは枝に身を取られないよう暫くかがんで走ったのち、ついに落馬した。慌てて下馬して走り寄った従兵の目撃談では、顔を地面につけ短く身を震わせたのちに絶命したという。従兵は撃たれなかった。後ろから皮ベルトを掴まれ「この売女のせがれが、後ろに下がれ」と南軍兵が叫んだのを覚えているという。
     主人を乗せていない空馬が指揮所に帰ってきて、不審に思うシャーマンは従兵から報告を受けると驚天動地したかのように慌てふためき、テネシー軍の全師団に進撃を命じて、まだ残されているかもしれないマクファーソンの遺体回収を指示した。
     やがて、指揮所にマクファーソンの亡骸を安置する頃になると、西からチータム兵団が突撃を開始し、「禿山」の北側が次第に押されて破れそうになった。シャーマンは時々、作戦図を見ながら頬に光るものを伝わらせていたが、予備に残っていたJ.A.Loganの第15軍団に「禿山」方面に進撃させると、テネシー軍以外の手出しを禁じた。復讐する名誉を与えようというのである。
     J.A.Loganはブラックジャックと仇名され、兵の士気を鼓舞することが得意であった。
     「諸君、ここを死守できるか。諸君はできるか」
     そう怒鳴って回るブラックジャックに兵は歓呼で応え、増援をえた北軍は南軍の攻撃を跳ね返し、ついにこの日、陣形を保つことに成功した。
     この「禿山の戦い」とも「アトランタの戦い」とも呼ばれる会戦で失われた南軍兵は約5000人、北軍兵は4000人とされる。北軍の陣は間一髪のところで破れそうであった。愛する部下を失ったシャーマンの復讐心はすさまじく、以後、アトランタ市内に加えられる砲撃は最高時で一日5千発に及んだと言う。シャーマンはワシントンの軍政長官H.ハレックに申し送った。
     「占領できるかどうか分からないが、どっちにしても用済みの街しか残りませんね」


6.エズラ教会の戦い
     マクファーソンの後を継いだオリバー・ハワードは、セブンパインズの戦いで右腕を失っていたが優秀な指揮官であった。
     シャーマンはアトランタへの輸送ルートにあたる残りの二つの鉄道の切断を彼に命じ、ハワードはブレアの第17軍団とJ.A.Loganの第15軍団を率い、アトランタ市の北から迂回して進撃をした。
     残る二つの鉄道は南西Palmettoから入ってくるAtlanta&West Point鉄道、及び南東Jonesboroから入ってくるMacon&Western鉄道であり、両方はアトランタのすぐ南のEast Point駅で連結して一本の鉄道に合わさり、市内に入ってきていた。East Point駅もアトランタから伸びている築城防衛線で囲まれているので、East Point駅の南で二本を切断する必要があった。
     テネシー軍の移動に、ただならぬものを感じたフッドは、新任のS.D.リー(ロバート・E・リーとは遠い縁続きにあたる)に索敵と攻撃を命じ、3個師団を預けてアトランタ市の西の街道伝いに送り出した。
     しかし、南軍騎兵の動きにただならぬものを感じたのはハワードの方でも同じであり、市の真西、エズラ教会付近の小山の凹凸を利用し、馬蹄系陣を組んで南軍の襲来を待った。7月26日、S.D.リーの3個師団はここに正面から飛びこんでしまい、しかも部隊相互間の連絡は緊密にいかず、逐次に投入される形になった各部隊は大損害を出して撤退した。この日、北軍が蒙った損害は死傷632名、南軍は約3000名余とされ、いかに一方的な戦いだったかが伺い知れる。
     ハワードは南進せず、アトランタ市西方の陣地構築にかかっていった。


7.ジョーンズボロ(Jonesboro)の戦い
     シャーマンはその後、専ら砲撃によるアトランタ市への攻撃と、騎兵隊による南下をもって鉄道の切断やアンダーソンヴィルのような捕虜収容所の襲撃を試みたが、はかばかしい成果をあげることができず、8月の半ば、再び歩兵による大迂回作戦の実行を考えるようになった。大統領選が刻一刻と近づき、これ以上アトランタ攻防戦を長引かせるわけにはいかなくなってきたのである。
     輸送路の切断を恐れ、要塞内からフッドの部隊が大軍で出てくれば、野戦で一気に勝負をつける方針であった。
     ところで、若いハワードがテネシー軍の総指揮官になったことで、ひとり西部軍司令官職の辞任を申し出た人物がいた。
     J.フッカーである。年令、軍歴から言って、マクファーソンの後釜にはフッカーがふさわしいと思われていたが、シャーマンの判定で15才も若いハワードになり、かつてポトマック軍総司令官でもあったフッカーはふてくされ、やめると申し出たのである。申し出は受け入れられ、フッカーは軍籍こそ離脱しなかったものの、以後再び現地司令官になることはなかった。H.Slocumが、フッカーの第20軍団のあとを引き継いだ。
     大迂回作戦をとるにあたって、シャーマンはH.Slocumの第20軍団だけをチャタフーチー川にかかる北方チャタヌーガ・ナッシュヴィルとの連絡鉄道付近に配置し、残りの三軍は全て迂回作戦に動員した。
     8月26日、アトランタをぐるりと反時計回りする行軍列の進発では、最も内側がスコフィールドのオハイオ軍、中央がトーマスのカンバーランド軍、外周がハワードのテネシー軍であった。
     Atlanta&West Point鉄道を3地点で切断し、Macon&Western鉄道に近づきつつある頃、ジョーンズボロ駅付近にはハーディ兵団とS.D.リー兵団が待機して8月31日の戦闘を一時的に支えたが、まさか、それほどの大軍が迂回しているとは思わなかったフッドが何かの陽動作戦とうたぐり、S.D.リー兵団を市内に呼び戻したことから、ハーディ兵団とアトランタ守備隊の運命が決してしまった。
     このとき、北軍6万人に対し、ハーディ兵団は1万2千人余に過ぎない。600名余の降伏兵を出したのち、陣前の逆茂木を利用して撤退の時間を稼ぎ、更に南方のラブジョイ駅に敗走していった。
     二つの鉄道を遮断され、ハーディから悲惨な戦況を知らされたことで、これ以上寡兵による抗戦は不可能と判断したフッドはついに9月1日の深夜、アトランタから脱出してラブジョイ駅のハーディ兵団と合流した。


8.アトランタ市開城
     アトランタを抜け出すにあたり、フッドは弾薬を北軍に渡さないよう貨車ごと爆破して処分した。深夜に雷鳴のような轟音が響き、地震のように大地が震えたという。
     数日後、麾下兵団に伴われてアトランタに入城したシャーマンは、全市民の退去を命じた。市長M.J.カルフーン以下数名の議員による命令撤回の要請に対し、シャーマンはこう答えている。
     「我々の軍事作戦上、住民の退去は必要である。私にできることは指揮下の兵に命じ、できるだけ円滑かつ速やかに、住民をあらゆる方角に向って退散させることのみである。
     私ぐらい戦争を悲惨なものにできる人間はいないと思うよ。戦争とは残酷なものだ。改善のしようのないものだ。我が国に戦争をもたらしたものどもは、人々が考えつく限りの呪いと悪罵に値するのだ。国家の分裂と平和は同居できない。合衆国を認め、国家政府の権威を認めるなら、我が軍団は諸君の庇護者となり、あらゆる危険から諸君を守りぬくであろう。大嵐に向って(こないでくれと)祈りを奉げるように、(やってくる)戦争の恐ろしい苦しみにも祈ったらいい。アトランタの市民が再び平和に暮らすことを求めるなら、その唯一の方法は戦争をやめることだ。
     我々は、諸君の黒んぼたちを欲しいわけではない。馬も土地もいらないし、財産も何もいらない。何より合衆国の法律を崇め従うこと、我が方の望みはこれのみである。それが諸君の文明の破壊を意味するなら、我々としても仕方がないね」
     シャーマンの軍隊は、5月4日にチャタヌーガを進発してから、この日までに4423人の戦死者を出していた。
     彼らは、市内の鉄道を徹底破壊した。再び南軍が襲ってきても、何も使えるものを残さないためである。丸木を重ね、それにレールを直角に渡して火をつける。するとレールは湾曲してしまう。兵はそれを「シャーマンのネクタイ」あるいは「シャーマンのヘヤピン」などと呼んだ。
     シャーマンはジョージア州の中心部を荒らし回り、海辺のサバンナに出るつもりである。それから両カロライナ州を、いなごの大軍の襲来のように都市破壊を繰り返しつつ、グラントが包囲戦を敷いているピータースバーグに南から近づいて合流し、ついにはリッチモンドに止めを刺す、これが彼の作戦構想であった。
     彼らの南部への敵がい心は、アンダーソンヴィル収容所から逃れてくる幽霊のようにやせ細った北軍兵捕虜の存在により倍化され、それだけ略奪と破壊の度合いを深めていった。


9.付 記
     現代のアトランタは巨大都市となり、当時の戦跡は外延化した市街地に呑みこまれていて、戦闘の様相を地形・地名で比定することは困難である。いわゆる「禿山」ないし「リゲッツの丘」と呼ばれる地には、戦争記念館が建っていて、世界最大のサイクロラマ(回転パノラマ)があり、戦闘を描いたタペストリーの前に設置された多数の人形とともに、訪れる人々に当時の戦争の様子を偲ばせている。
     シャーマンの戦闘指揮所であったところは、今はカーター元大統領の私設図書館になっている。
     エズラ教会は既に存在しない。オリンピック会場の南、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア道路を西に行き、黒人が多く住んでいる地域に、変に凹凸のある谷あいの地がそうであるが、昼からぶらぶらしている人々が多く、若者たちから変な目つきで睨まれるので、長く居るのは物騒な気配が感じられる。
     なお、「風と共に去りぬ」は、南北戦争で陥落したアトランタを舞台に描いた、完全な小説である。




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