会戦日 1864年5月5日〜6日
会戦の背景
1863年の7月、ゲティスバーグの戦いに敗れた北ヴァージニア軍は、以後、リッチモンドの防衛に主眼を置かざるを得ず、やがて襲来するであろう北軍に対し、出血を強いる持久戦術にでた。北部の厭戦気分に拍車をかけることで、リンカンの再選阻止と独立を前提とした和平達成に一緯の望みをかけたのである。
リー司令官は、ラパハノック(Rappahannock)川の上流ラピダン(Rapidan)川の南、オレンジ公館付近に軍営を敷き、やがて南下してくる北軍に備えたが、ゲティスバーグの戦いののち、すぐさま敗走する敵の追撃に移るべきであったG.ミード司令官率いるポトマック軍の動きは緩慢で、南下してもカルペッパー公館付近に軍営を敷いていた。北軍は川沿いに構築された南軍の堅陣を破るのは容易ではないと判断、両軍は少々の小競り合いに終始したまま冬を迎えた。
雪解けによる道の泥濘も一段落する春を迎え、再び戦雲の兆しが到来するころ、リンカンの政府と連邦議会は、ヴィックスバーグ陥落など西部州での戦闘に活躍をしたU.S.グラントに、長く絶えていた「中将」の職位を復活させて与え、北軍の全指揮権を預けた。
U.S.グラントは、ナッシュヴィルに司令部を置く西部軍の指揮を有能な部下シャーマンに与え、自らは東部戦線の野戦指揮官として前線に赴き、G.ミード司令官は在任のまま大局的戦略の立案実施に意を用いた。
(彼はあらゆる点でマクレランとは違っていた。若いながらいかつい相貌を前面に出し、身なり服装は折り目正しく革靴その他を磨きたてていたマクレランに対し、グラントは兵服の前のボタンはいつもだらしなく外したまま。一般の兵士には「ただの飲んだくれ」「給料を半分しか貰えず、いまにも解雇されそうな、しょぼくれ男」に見えたという。)
U.S.グラントの戦略は、下記のようなものであった。
- これまでの個別ばらばらの攻撃によって、南軍に鉄道を利用した機動的配兵の余裕を与えていた事情にかんがみ、西部軍と東部軍と時を合わせて総攻撃に移ることで、南軍の応戦体制を手一杯にすること。
- 軍事目標は南部連合の首都リッチモンドの攻略であるが、北ヴァージニア軍の防衛線を迂回して進軍することにより、首都との間に割って入ってくるであろう敵を、冬営で築かれた陣の外におびき出して野戦に雌雄を決する。
カルペパー(Culpeper)で充分な装備を終えたポトマック軍12万人は5月4日、シャーマン軍がチャタヌーガを進発するのに時を合わせ、リッチモンドに向けてラピダン川の渡河に移っていった。更にモンロー要塞からは、バトラー軍1万2千人がリッチモンドの南方ピータースバーグからの首都攻略を企図して進発していく。
しかし、4日間でリッチモンドに到達すると新聞記者に豪語していたグラントは、フレデリクスバーグの西方の潅木地帯ウィルダネスで、北ヴァージニア軍の奇襲攻撃にあい、以後、40日戦争と呼ばれる苦闘の幕開けを迎えた。
1.南軍の部隊配置とリー司令官の戦略
冬の間、持病の神経痛や消化不良による腸の病に苦しんだリー司令官は、ディビス大統領にゲティスバーグ敗戦の責任を取って辞任を申し出たが、強く遺留されて思いとどまった。
ラピダン川一帯を眺望できる「クラークの山」の付近に本営を移し、山下にユーエル兵団とA.P.ヒル兵団を折り敷かせ、南方ゴードンスヴィル付近にはロングストリート兵団を配置、北軍の動きによってその進軍方向を決める作戦でいた。
フレデリクスバーグにはJEBステゥアートの騎兵旅団があり、斥候や村民からもたらされる報告の積み上げで、北軍の僅かな動きも見逃さない構えをみせていた。
「クラークの山」頂上から北を眺め、北軍の進軍方向を「あそこからだ」と的確に見定めると、ラピダン川南方に広がる低潅木地帯の自然条件を利用して北軍の砲車の動きを止め、長く伸びるであろう敵の歩兵部隊の行軍列に横から奇襲攻撃を仕掛ける作戦を立てた。
しかし、これは非常に危険な賭けと言わざるを得ない。北ヴァージニア軍の6万5千人は4部隊に分散しており、ユーエル兵団とA.P.ヒル兵団で敵をしばらく支えねばならず、ロングストリート兵団をタイミングよく戦場に到着させねばならない。しかも、低潅木地帯は馬の脚を止め、騎兵による索敵を困難にする。
兵数でも装備でも敵に遥かに劣る部隊を分散配置しておいて、その間に敵が割り込んでくる形を作っておき、時間差を考慮に入れて味方の兵力を一点に集中させるというのは、並みな胆力の司令官では実施できない。
一帯は鉄生産と燃料供給のため、古くからあった森林が広い範囲にわたり伐木されており、その後に再び小樹木と潅木が密生している河川下流域であった。森林を抜ける道はいずれも狭い。一日で通り抜けたいと希望していたグラントは行軍の遅れ、とくに4300台に上る荷馬車の行軍に悩んだ。彼は、地理不案内から南軍も同じ事情にあると判断して充分な索敵を行わず、北ヴァージニア軍との接触を翌5日以後と考えていた。
2.軍部隊の移動と会敵
フレデリクスバーグからほぼ真西に向かって伸びるラピダン川は、東から「エリーの渡し場」「カルペパー鉱山の渡し場」「ジャーマンナの渡し場」「モートンの渡し場」など、幾つかの渡河点がある。
5月4日、北軍は「エリーの渡し場」からW.S. ハンコック率いる第2軍団を渡渉させ、「カルペパー鉱山の渡し場」からは各部隊の荷馬車を通過させ、「ジャーマンナの渡し場」からは第一陣にG.K.ウォーレンの第5軍団、第二陣にJ.セジウィクの
第6軍団を立てて渡渉させていた。後方のワシントンとの鉄道連絡の確保はバーンサイドの第9軍団が担任する。
この日、ハンコックの第2軍団は、密生した森林に囲まれるなかで、前年に北軍が破れたチャンセラースヴィルの戦場付近に野営せざるを得なかった。多数の白骨化した戦死者の間にキャンプを張って、不気味な一夜をすごしたという。
5日早朝、リー司令官はJEBステゥアートの騎兵隊からもたらされる報告で自分の推論の正しさを確信すると、北軍の3つの渡渉点に向かう2つの街道にユーエル兵団とA.P.ヒル兵団を繰り出させ、ただちに進軍を下令した。同時にロングストリートにも連絡をとり、できるだけ早く戦場に到着するよう申し送った。
「ジャーマンナの渡し場」から「ウィルダネスの宿」を目標点に向けて潅木地帯に入ったG.K.ウォーレンの第5軍団が、オレンジ街道をまっしぐらに東進してくるユーエル兵団の横撃を受けたのは、同日の午後1時少し前である。
猛烈な双方の発砲のあと、伐採による空開地や潅木密生地に両軍とも入り乱れての白兵戦になり、ユーエル兵団は北軍を一時的に後退させたのを機に「サンダースの開墾地」で塹壕の構築にかかった。
ここに一つの逸話がある。
南軍の進軍を見た第5軍団の司令官G.K.ウォーレンは、ポトマック軍総司令官G.ミードに、後続のJ.セジウィック率いる第6軍団の到着を待って攻撃すべきだと主張した。しかし、衝突した南軍がラピダン川の渡河点付近に散開させている少数の敵守備隊にすぎないと観測したG.ミードは、遅れている後続を待たずに第5軍団単独での攻撃を命じた。その際、「臆したか」との疑問を発したという。
第5軍団のうち第4師団はかなり南方に進んでいて、南軍側塹壕に向けて攻撃に移っていったのは残る3個師団であった。
伐採した樹木を上からみてジグザグ型になるよう組み合わせて構築した南軍の塹壕線は、かなり強力であり、「サンダースの開墾地」に足を踏み入れたC.グリフィン率いる第一師団は7個旅団の敵を相手に、たちまち手痛い被害を受けた。
ウェストポイント軍官学校卒で歴戦の雄C.グリフィンは、味方の崩壊を見て「ウィルダネスの宿」に近い「レイシーの家」の本営に馬で駆けつけると、鞍上から飛び降りてG.ミードを大声で怒鳴りつけた。
「わが軍はユーエルを4分の3マイル押し返したが、いまだセジウィックはこない。ワズワース(C.グリフィンの左翼)は反撃されて退却だ。これでは両翼をそがれてどうしようもない」
もちろん、指揮系統からしてG.K.ウォーレンを飛び越えた上官への暴言であるが、G.ミードはグリフィンが腹にたまったものをひとしきり吐き出して去るまで、温厚な相好で受け流していた。
その時、グラントは木陰の切り株のひとつに腰を下ろし、ほかに何事もやることがないかのように小枝をナイフで無心に削っていた。実際、行軍その他の具体的事項の実施は全部ミードにゆだねているので、やることがなかったのである。そのグラントが立ちあがり、G.ミードに近づいてきて、やはり大声で怒鳴った。
「‘グレッグ’とかいう、あいつは何物だ。貴官はあの者を収監すべきではないか」
長身のG.ミードは、小柄なグラントとは頭ひとつ背丈が違う。上から覗きこむようにして、グラントの相変わらず前をだらしなくはだけさせている兵服のボタンを、まるで子供の世話をするように、ひとつづつ結びならが静かに言った。
「‘グレッグ’ではなくて‘グリフィン’さ。あいつは、こういう物の言い方しかできないんだよ」
グラントは座っていた切り株に戻り、また小枝を無心に削り出したという。
3.低潅木地帯の混戦
3時頃、J.セジウィックの第6師団が到着すると、南軍ユーエル兵団との戦闘は本格的なものになり、押しつ戻しつの混戦が展開された。潅木が密生する窪みや小丘陵は敵味方の視界を遮り、彼我の兵力も分からない小部隊ごとの遭遇戦、射撃をしては銃剣突撃をする白兵戦が展開され、ユーエル兵団は何度も防衛線を破られそうになりながらも、夕闇迫るまで持ちこたえた。
両軍兵士が恐怖したのは、激しい戦闘のさなか砲弾の炸裂からくる森林火災であった。迫りくる火から負傷兵は這って逃げ、間に合わないものは断末魔の悲鳴をあげつつ生きながらに焼き殺された。
この時までに、A.Pヒル兵団はリー司令官を伴い、オレンジ街道の南に平行して走るオレンジ脇街道を進軍してW.S.ハンコックの第2軍団の後ろを進んでいた第6軍団第2師団と衝突していた。
オレンジ脇街道は、北軍第2軍団が行軍する「ブロック道」とほぼ直角に交差する。南軍の主力部隊が展開しているという事実に、ミードはW.S.ハンコックに命じて反転させ、A.Pヒル兵団への攻撃を命じた。
ゲッティ師団長率いる第6軍団第2師団の前面には、A.Pヒル兵団の前衛ヘス師団が展開していたが、この時点でリー司令官はまだ本格的戦闘になるのを避けていた。ロングストリート兵団が到着するまで、敵を引き付けておくだけが当面の作戦目的であり、適当に射撃しては後退する姿勢を維持していた。が、突然、リー司令官が本営を置く「タップ未亡人の家」前の開墾地の北縁から北軍の一連隊が現れ、あわや戦闘かという事態になった。
北軍は敵兵力を誤認したか射撃をせずに再び森のなかに退散したが、二つの街道の中間域が、いかに双方とも無防備で混戦模様であったかを告げていた。
リー司令官はA.Pヒル兵団の後衛ウィルコックス師団に命じて左翼に展開させ、ユーエル兵団との間に生じた空隙を埋める策に出たが、部隊移動を開始して間もなく命令は取消され、呼び戻されたウィルコックス師団は専らオレンジ脇街道の正面の敵に射撃を集中せざるをを得なかった。W.S.ハンコックの第2師団が右翼・左翼に部隊展開を始め、攻撃の圧力を次第に強く加え始めていたからである。
リー司令官の意図に反して戦闘は次第に激戦の様相を示し始めていた。正面の敵を支えるだけで精一杯のA.P.ヒル兵団の左翼方向からは、ワズワースが指揮する第5軍団第4師団が進軍してきて、戦闘になお一層の苛烈さを加えていた。
闇の訪れだけが両軍を引き離したと言ってもいい。しかも、南軍崩壊の危険は目の前にあった。もし、ロングストリート兵団が到着しない場合を想定すれば将兵は誰もが恐怖せざるを得ない。翌日の戦闘において、2個師団1万5千人に過ぎないA.Pヒル兵団は、ハンコックの4個師団にゲッティ、ワズワースの師団を加えた4万人以上と戦わねばならない。その結果は当然、見えている。しかも、グラントは更に駄目押しを図るかのように、深夜過ぎになって後方に控えるバーンサイドの第9軍団に急遽伝騎を走らせ、両街道の間に割って入るよう進軍命令を出した。
この時、ロングストリートは南軍司令部の後方10マイル地点にいた。農道や開墾地に強行軍を重ねていたが、命令内容伝達の齟齬から、ロングストリートは麾下兵団に休息を命じ、深夜の行軍開始が行われないままになった。
4.南軍本営前の激戦
6日の天明を迎え、空が白々と明けて行く。それでもロングストリート兵団はどこにも現れない。
一方、W.S.ハンコックは斥候の報告でオレンジ脇街道の奥に「タップ未亡人の開墾地」があり、そこに白い幕をかけた南軍荷馬車隊と戦闘指揮所があることを掴んでいた。
北軍の攻撃は午前5時から始まり、A.P.ヒル兵団は崩壊の様相を示し始めた。一人づつの戦線離脱が数人になり、やがて小部隊ごとに後方へ逃げてくる。負傷兵も次々に正面の森から運び出され、未亡人宅の庭先に並べられていた。
S.マクゴワン指揮のサウスカロライナ連隊が壊走するのを眺めていたリー司令官は、鞍上から叫んだ。
「なんと!この走り回るガチョウの群れみたいなのが、栄えある貴下の連隊か」
「将軍、我が兵は壊走しているのではありません。反撃のための場所を選んでいるのです」
それでも、全軍の壊走は目の前にあった。歩兵が出払っている司令部には、28才のW.ポワグ中佐が指揮する砲兵一個大隊しかない。ポワグ中佐は、リー司令官の承認を得て、森の奥から敗走してくる南軍兵の頭越しにキャニスタ弾を撃ち始めた。森やプランク脇街道を進む北軍の前衛のあちこちに、砲撃による空隙ができるが、砲兵一個大隊と一個師団の歩兵では勝負にならない。進撃する北軍部隊の海に南軍司令部が飲み込まれるのは目前と思われた。
W.S.ハンコックは、側近に向かって言い放った。
「ミード将軍に伝えよ、我が軍は敵を見事に粉砕しつつある」
北軍が両翼から南軍を包み込みつつあるころ、プランク脇街道の後方から砂煙を上げて近づく一部隊があり、リー司令官は側近とともに走り寄り、どこの所属か質問をした。ロングストリート兵団の前衛ジョン・グレッグ指揮のテキサス部隊と知ると、思わず帽子を振り上げて「テキサス万歳!」と連呼したという。
「グレッグ君、会えてうれしい。諸君が森に入ったら、あの連中に冷たい鉄を味あわせてやってくれ。君が突撃しなければ、あの連中は、あそこで一日中がんばり銃撃を続けるぞ」
「将軍、私もさように存じおります」
間もなくロングストリートから伝騎が走りきたって、突撃せよとの指令がもたらされた。グレッグの声が青い空に響き渡る。
「テキサス旅団、銃を構え!リー将軍の馬前であるぞ。前進!」
轟く銃砲音は最高潮に達している。愛馬「トラベラー」の鞍上に伸び上がり、司令官リーは帽子を振り白髪頭を出して叫んだ。
「テキサス部隊に敵はない!」
ジョン・グレッグの従兵レオナード・ジーは思わず涙ながらに叫んだ。
「あの老人のためなら、俺は地獄へも突撃する」
直ちに散開するテキサス部隊800人は突撃のおらび声を上げながら森へ突進していった。しかし、いつのまにか司令官リーが彼らに混じっている。
「将軍、後方へおさがり下さい」
「ここは、あなたがくる場所ではありません。おさがり下さい」
「おさがり下さい。さもなくば、我々は進みませんぞ」
敵の銃弾が不気味な擦過音をあげ、樹木に当って木の葉が舞い散る。付近の兵が駆けつけ、轡に手をかけ馬首をめぐらそうとするが、リーはまるで言うことをきかない。彼も完全に血がのぼせていた。
従兵チャールズ・ヴェナブルが叫ぶ。
「ロングストリート将軍はあちらです。お目にかかりたかったのではないのですか!」
その声で我に帰ったリーは、数人の幕僚とともに森のなかに姿を現したロングストリートのもとへ近づいていき、目下の戦況の説明をしようとしたが、まず声をかけたのはロングストリートのほうだった。
「将軍。私に1時間の猶予を頂ければ戦線を安定させてご覧にいれます。でも私が不要ならば、こんなひどいところはさっさと退散させて頂きますが、いかがでしょう」
平静を取り戻したリー司令官を後に残して、ロングストリートと幕僚は森のなかで進んで行き、A.P.ヒルの左翼に展開してゆく9個旅団の各部隊への的確な指示で、その言葉どおりに戦線を安定させた。北軍第5軍団のワズワース師団長は戦死し、W.S.ハンコックは遥か後年、ロングストリートに面会した際、次のように語った。
「あのとき、おまえさんは我が軍を濡れた毛布のように丸めよった」
南軍砲兵の一人は、こう言っている。
「正装した美女がパーティに遅れてくるように、ロングストリートはしばしば宴会に遅れて到着することがあるが、彼はいつも伝統ある第一軍団とともに劇的な登場をする」
また、別の砲兵は次のようにも言っている。
「彼の戦争はいつも壮麗さに満ちている。しかし、このときほど輝いたことはなかった」
しかし午後になって、ロングストリートは突然、飛来した銃弾に首筋を撃たれて後送された。そばにいたM.ジェンキンス旅団長は即死。前線から戻ってくる南軍兵が、敵と勘違いして放った味方撃ちであった。
リー司令官は、ブロック道に後退し防衛線を張ったハンコックの軍団に北ヴァージニア軍の歴史で最後になる突撃を敢行したが、兵力が足らず破ることはできなかった。800人で森に入ったテキサス部隊で戻ってきた兵は300人足らずであり、兵の疲れと訪れる夕闇で戦闘は自然に止んでいった。
5.その後の両軍
この日の戦いでこうむった北軍側の損害は1万7千人。南軍側は9千人。互角という評価もあれば、南軍側の辛勝という見方もある。
互角という評価は、リー司令官が北軍を打ち破り北方に撤退させられず、更なる南進を許したという点が根拠になっている。
しかし、彼我の兵力差を考慮する限り、北ヴァージニア軍が敗れなかったというだけでも、驚くべきリー司令官の戦術的勝利というべきであろう。逆に北軍はリッチモンドへの進軍という目的は継続できたが、リーの軍隊の壊滅という目的は達せられなかった。
ウィルダネスの潅木地帯を北軍の足止めに使おうというリーの戦略はあたり、バーンサイドの第9軍団は道に迷い6日の戦闘に参加できなかった。
グラントは、北軍左翼のハンコックが敗れそうだと聞くと支援部隊と弾薬を送り、ともかくも平静心を保っていた。少なくとも、そう見えた。しかし、前線指揮官が次々に到来し、悲観論を口々に述べ、リーは必ず我が軍の後方へ出て退路を断つという声を聞くと、思わず心の糸が切れた。
「もうリーが何をするかという話は、いいかげんに聞き飽きた。諸君のうちには、彼が後ろ宙返りを2回やって、我々の後方、更には両翼にも同時に着地できると考える者がいるらしい。諸君は前線の指揮に戻って、リーが何をするかよりも、まず自分がどうするかを考えたまえ」
指揮官たちの不安は的外れなものではない。両軍の指令部は驚くほど近接し、どこかが突破される危険がないとは誰も言えない。チャンセラースヴィルの会戦では、あらぬ方向からの奇襲で全戦線が崩壊した。もし、リーが「隠し玉」を持っていたら、という不安は拭いきれない。
それでも、北軍が数にものを言わせてふんばり、全ての戦線が安定した夜のこと、司令部のテントの寝台に顔を臥し、辺りもはばからず激情にかられ泣き叫んでいるグラントの姿を目撃した将校らがいた。実際、膨大な犠牲もさることながら、グラントにとっては全軍が崩壊しかねないほどの危機を味わったのは、シャイロウ戦以来の屈辱であった。
翌朝6時過ぎ、北ヴァージニア軍の防衛線を敗れないと判定したグラントは、兵をまとめて南進するよう命令し、北軍部隊は前線から離れて行軍を開始した。
リーの部隊も、それに合わせて移動していく。そして、グラントの心の傷に更に塩を塗りこむかのように、次の戦場スポツェルヴェニアこそ、リーの兵略が見事に発揮された戦いになったのである。
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