南北戦争の起源―1850年の妥協
1.広大な西方の大地
メキシコ戦争の開戦から間もない1846年8月8日、米連邦議会下院に民主党から「ウィルモット修正条項」が提出された。そこには、こう書かれていた。
「明瞭かつ基本的条件として、メキシコ共和国から獲得される領土において、奴隷制度もしくは自己の意思に反する服属行為が、法のもとで適切に執行される刑罰を除いて、あってはならないものとする」
メキシコ戦争は、当時「ポーク氏の戦争」と皮肉られたように、ポーク大統領がメキシコからの領土簒奪を目的として始めた戦争であった。大統領は戦費と、将来、メキシコから領土割譲を受ける代償の支払いのため、特別予算枠の承認を連邦議会から取り付けなくてはならなかった。ところが、与党民主党は、それに条件を付けたのである。
戦争の結果、アメリカは広大な領土を手にした。リオ・グランデ河からカリフォルニアにいたる土地を手にし、大西洋と太平洋をつなぐ大陸国家になったのである。
しかし、この新領土に准州を設置し、更に州として連邦に編入するにあたって、奴隷制度をめぐる極めて深刻な政治対立が表面化した。それが今日、「1850年の妥協」と呼ばれるものであり、アメリカ合衆国は二つに分裂する危機に晒された。もし、この時に分裂していれば、南北戦争の開戦は10年早く始まっていただろうと思われる。
当時、ミシシッピ河から西は人煙まばらな土地である。連邦の法権力は、ほとんど、あるいは全く届いていない。住民といえば、僅かな入植地を除けば、インディアン原住民が狩りをして暮らしているぐらいである。いまだ空白な、この土地に、どのような制度をもたらすかという問題で、議会に論争が吹き荒れた。2.自作農か奴隷制か
この頃、盛んに使われた言葉がある。「マニフェスト・デスティニィ(明白なる運命)」である。西方への自由と民主主義の拡大、北アメリカ大陸を治める自治政府の樹立は合衆国の運命であり、神から与えられた使命であるという考え方だ。
この主張は容易に領土拡張欲に転化され、アメリカ人はインディアンと戦い、メキシコと戦い、広大な領土を手にするに至った。
多くの北部人にとって、西の大地は小規模自作農のための土地であった。アメリカには絶えずヨーロッパから大量の移民がやってくる。ヨーロッパは革命・戦争・凶作・飢饉・迫害が充満した世界だ。政情不安から新天地を求めて逃れてくる者もいれば、貧しい小作農の立場から土地持ちの自作農にあこがれてやってくる者もいる。飢饉にあい、知り合いを頼ってやってくる者にとって、肥沃な西の大地は再起のための場所であった。ヨーロッパ人だけではない。都会で仕事のない青年にとって、西へ行き土地を買い、農民として成功することは大きな夢であった。この時代、ボストン、ニューヨーク、シカゴなどの大消費地が生まれていたため、農民として成功する機会は多く、川沿いや街道沿いに次々に開拓村が生まれていた。![]()
しかし、当時のアメリカには、これとは全く異なる農園の形があった。多数の黒人奴隷の上に立つ農園である。この頃、奴隷貿易は既に公式には廃止されていたが、アメリカ南部では、ほとんど無視されていた。今日の我々とっては信じがたいことであるが、町の市場で人を売っていたのである。父親がいくら、母親がいくら、子供がいくらと売られるために、一家離散など珍しくもなかった。そして、南部農園主らにとっては、さして罪悪とも思われていなかった。
ヴァン・ビューレン内閣で海軍長官を務めたJ.K.スポルディング の手記に、こうして売られていく黒人らの姿が描かれている。
「太陽は空に高く輝き、暑い日のことだった。道の曲がりで、次のような一団と出会った。先頭は馬一頭に引かれた荷車で、半裸の黒人の子供らが5,6人、豚のように積まれて互いに寄り添っている。覆い幕は張っていないから、強い陽射しにあてられて眠りこけているようだった。荷車の後ろを歩いてくるのは黒人の女が3人、頭も首筋も胸もあらわで、靴も靴下も履いていない。次が黒人の男3人、帽子をつけず半裸で、牛に用いる鎖で互いに繋がれていた。列の最後が白人一人、馬に乗って腰のベルトに短銃を下げていた。」
奴隷であったチャールス・ボールは、農園の生活について、次のように書き残している。
「この日の朝、角笛の音で勢揃いして出かけたのは168人だったと思う。二、三人は病気で出られないと監督人に告げていたからね。監督人は角笛を片手に、腰に鞭を下げて、俺どもを畑まで先導していくんだ。男も女も子供も混ぜこぜで、満足に服を着ているものなんか一人もいやしない。全くお粗末な格好だったよ。半分以上は素っ裸さ。年頃の若い娘だって、何人かは自然がくれたお飾りのまんま。この年頃の若い男連中だって、かなりの数がだいたいは同じようなもんだった。俺が被っていた古びた麦わら帽子以外、帽子や日覆いのような頭に被るものは全くなし。古いシャツや、よれよれのズボンをはいている男らはいたが、両方が揃っているものは一人もいない。女は何人かがペチコートをつけているし、多くがワンピースを着ていたが、こちらも両方つけているのは誰一人いない。見渡す限りの綿花畑のなかを一マイル(1.6km)ぐらい歩いて、この日の作業現場に着くわけだ。」
南部で奴隷制度が普及した背景に、皮肉にも英国で始まった産業革命がある。英国の紡績機に供給する綿の需要が高まり、アメリカ南部に綿花栽培が普及した。森林の伐採、土地の開墾や綿摘み、荷車・馬車での運搬、船積みなどの苦役に奴隷の労働力は重要であった。
英国植民地時代、奴隷は主にヴァージニア州の低湿地帯で行われたタバコ栽培のため、大西洋奴隷貿易を通じて大々的にアメリカ大陸に連れてこられた。その後は藍玉・米の栽培を通じてフロリダにいたる東海岸一帯に広がった。そして、英国で産業革命が勃興すると、ミシシッピ河に至る南部一帯に飛躍的に広がったのである。
19世紀アメリカの奴隷制が、この地上に出現したいかなる奴隷社会よりも特異な点は、奴隷が州法によって厳重管理され、皮膚の色による徹底的差別を通じて、黒人の地位向上の機会が著しく制限されていたことである。その意味で、古代社会にみられる同民族同士の主人・奴婢の関係というよりも、支配者が被征服民に鞭を振るってピラミッドの建設をさせている、古代エジプトの奴隷社会を彷彿させるものがある。
1 712年にサウスカロライナで制定された奴隷法は、その後に南部各州で準用される元になった法体系だが、次のような文言を含んでいる。この法律には、1740年までに、次のような追加条項が盛り込まれた。
- 奴隷は、白人の同伴または書面による許可なくして主人の所有地を離れてはならない。かかる通行証なくして主人の所有地を離れた奴隷が逮捕された場合、開拓地の白人は誰を問わず、その者を速やかに処罰する責務を負う。
- 奴隷の逃亡をそそのかす者、または州外への逃亡を企てた奴隷は死罪とする。
- 二〇日間を超えて逮捕を免れ逃げた奴隷は、初回は公開の場で鞭打ちの刑とする。二回目の逃亡に際しては右頬にRの文字の焼き印を押し、三回目は三〇日以上ならば方耳を切り落とす。四回目の場合、男ならば去勢し、女ならば鞭打ちと左頬にR文字の焼き印及び左耳を切り落とすものとする。
- 奴隷法に従わず、所定の処罰を実行しない奴隷主には罰金を課したうえ、使用している奴隷の所有権を失うものとする。
- 奴隷主は監視会社の責任者に対し、捕獲され連れ戻された逃亡奴隷のそれぞれについて四ポンドを、その生死に関らず支払うものとする。
- 奴隷の家屋は二週間に一度、武器及び盗品の存否確認のため家捜しされる。盗みについて主人は当該奴隷に鞭打ち刑を加え、回が重なるごとに方耳切り、焼き印の烙印と鼻切りの重罰を加え、四回目には死罪とする。
- 処罰中に奴隷が死んでも、主人は罪に問われない。故意に奴隷を殺した場合、主人には五〇ポンドの罰金が課される。
- 奴隷は賃金労働をしてはならない。また、トウモロコシ、豆、コメを栽培し、豚、牛、馬を飼育し、舟の所有、物品の売買をしてはならない。通常の「ニグロ服」よりも上等の衣服を着てはならない。
- 奴隷に読み書きを教えてはならない。違反者には100ドルの罰金と半年の禁固刑が課される。
- 故意に奴隷を殺した場合は700ポンドの罰金、故意によらず激情により誤って殺してしまった場合は350ポンドの罰金が課される。
- 明確な契約関係による以外、自由身分の付与は行ってはならない。また一八二〇年以降は州行政による許可制とする。
- 自由身分の者を除き、奴隷身分の者は黒人、インディアン、混血者、メスティソを問わず生涯奴隷とし、奴隷から生まれた者も生涯奴隷とする。
- 馬鞭・牛皮を用いた鞭打ちもしくは平板による殴打以外、または鉄球を繋ぐか禁固をする以外の、舌を切り落とし、目をくりぬき、去勢し、または火傷を負わせ、四肢を損なうなど、故意に残忍な方法を用いた場合、各人一回につき100ポンドの罰金を課すものとする。
- 居住地である農園から白人の同伴なく離れ、白人による身元の調べに応じない奴隷は、かかる白人によって追求・捕獲・穏当な範囲での矯正の対象とされる。もし、かかる奴隷が殴打反撃した場合は殺害しても合法とされる。
奴隷は資産であった。借金の抵当に入れられることもあり、日極め月極めで貸出すこともでき、いつでも主人の意思ひとつで売却された。主人が借財を残して死んだ場合、公証人や仲介業者の手が入って競売にかけられ、求償者への弁済にあてられた。
白人を相手に訴訟を起すことは認められていない。奴隷を殺しても罰金程度で済んだのであり、サウスカロライナがようやく死罪も有り得るとしたのは、1821年のことである。
虐待に耐え兼ね、自由を求めて農園を脱走する奴隷には、犬の噛み傷が多く見られた。彼らには懸賞金がつけられ、銃で武装し馬で追いかける逮捕人が、犬に先導させるからである。
サウスカロライナの州都チャールストンの最高裁判事の娘に生れ、奴隷制を嫌って北部に逃れ、のちに奴隷解放運動に身を投じるアンジェリナ・グリムケによれば、同市の上流社会では名を知られた「ある地位の高い、のちに『人道と宗教の女性の会』の幹事を務める女性」が、家内奴隷の折檻のために、「パンケーキ・スティック」という牛皮を張った平板を屋敷のあちこちに置いていたという。
「自分で折檻したいとき、あるいは誰かにやらせるとき、いつでもすぐ使いに命じて取りにやれるためでした。何年もの間、毎日のように次から次へと誰かが叩かれ、とくに彼女の使用人や若い家内奴隷が、顔と言わず腕と言わず、取るに足らない間違いやら、ときには全く落ち度がなくても、パンケーキ・スティックでひどく叩かれていました」
少しでも反抗すればどうなるか。アンジェリナは、主人の依頼で奴隷に鞭を振るってくれる矯正施設(Working House)が、市内にあったことを伝えている。
「この女主人は時折、奴隷の男女を矯正施設に送って罰を与えてもらうことがありました。ある女の子がそこへ送られ、素っ裸にされて鞭で叩かれましたが、見せて貰った背中の傷と言ったら、指一本がなかに入ってしまいかねないぐらいで、肉片が鞭による拷問で切り取られていました。
この女の召し使いとなっている男性の奴隷たちも時折、矯正施設に送られて叩かれました。背中に切り刻まれた傷が放つ膿の悪臭といったら耐え切れないほどひどくて、暫くは腫れたり固くなっているから訪問客にも見せられません。鞭打ちを加えたあとの数日間は、屋敷内への立ち入りは許されなかったものです。
血塗られた建物内で行われている残酷な処罰については、よく知っていましたから、ある日、その側をどうしても通らなければならなかったとき、私は恐ろしい建物の姿に全身をうたれ、まるで地獄の庁を通り過ぎるような異様さを覚えてしまい、がくがくと膝が震えて立ってはいられないほどでした。近所に住んでいる友人は、拷問を加えられた奴隷の悲鳴を、しばしば耳にしたそうです」
アンジェリナの姉のサラも「鞭の音と奴隷の悲鳴に耐えられず父祖の土地を去り、奴隷制のために郷里を捨てた」とする。彼女も妹と同じような状況を日々目にしていたが、ある日、それとは全く異なる光景にでくわした。
「サウス・カロライナの南部を旅行中のことでした。『サラさま、あれを。あれをご覧なさいまし』という御者の脅えた叫び声に振り向いてみると、彼の指差す方向には棒切れの先に人間の頭が突き刺さっていました。あとで聞いてみると、逃亡した奴隷が追いかけられて撃たれ、見せしめのために体から頭がもぎ取られて、街道に晒されていたとのことでした」
一方、多くの北部人にとって、南部の奴隷制度は、法の下の平等を謳う合衆国憲法に照らしても、道徳的観点からも許しがたい事であった。
クェーカー教徒によって始まった奴隷解放運動は、この頃、その運動の担い手がキリスト教福音派に移っていたが、その中心人物の一人ルイス・タッパンは、「奴隷制は自由の樹の根にたかる虫のようなものだ。殺さないと樹が死んでしまう」と言っている。
アメリカ独立戦争に従軍したフランス革命の雄・ラファイエットが、「奴隷制の土地を作ると分っていたら、私はアメリカのため剣を抜くことはなかった」という言葉を残したように、アメリカには、建国当時の理念とはかけ離れた光景が広がっていた。
例えば、首都ワシントンがあるコロンビア地区には奴隷市場があった。初めて連邦下院議員に当選したA・リンカンも、けたたましく食堂に逃げ込んでくる奴隷を見て驚いている。
フランス市民憲法を引き継ぎ「法の下の平等」を謳う合衆国憲法と、圧政からの自由を象徴する星条旗の下に、奴隷市場があるという事実は、合衆国を訪れる欧州各国の記者によって皮肉られ、また、独立戦争に従軍し戦死・戦病死した父祖を持つ人々にとっては、耐え難い恥辱であった。
それでも北部人には、積極的に南部の奴隷解放を推し進めることはできなかった。既に幾つかの州に広がっており、あまりに問題が大きすぎるのである。そして、社会の発達とともに、いずれは時代とともに無くなって行くだろうという楽観的な見方が支配的であった。
ところが、西方の領土に、南部人が奴隷制を人為的に拡大させようとなると、北部人の態度は一変する。
自分たちが自作農民を移植しようとしている土地に、憲法の精神に違反し、道徳的にも許しがたい制度を広げるとはなんだ、ヨーロッパ人による開拓地が、黒人奴隷によって奪われてたまるか、ということである。
「ウィルモット修正条項」は、まさに、そのような北部人の姿勢を体現するようなものであった。「ウィルモット修正条項」は、連邦下院において賛成80対反対64で可決されたが、反対票のうち、実に61票が南部選出の議員によるものであった。この時から、与党民主党、野党ホイッグ党という政治の図式は、それぞれの党を超え、北部議員対南部議員という図式に変化してしまう。3.奴隷制を支える思想
人身売買が2世紀近く繰り返されると、それが社会に定着してしまって、かえってそれが善だとまで主張する人々が出てくる。南部が合衆国から分裂する複線となる政治思想であり、その担い手は当時、ファイアー・イーター(火を食らう人々)と呼ばれた。日本流に言えば過激思想家ということになるだろう。
その代表的人物が、サウスカロライナ州の大農園主で上院議員、アダムス及びジャクソン大統領の下で副大統領、テイラー大統領下で国務長官を務めたジョン・C・カルフーンである。![]()
1838年、彼は議会演説で次のように述べている。
「南部人の多くは、かつて奴隷制度を道徳的にも政治的にも悪だと思ったことがある。かような嘘八百の馬鹿話しは今はない。真実の光に照らし、奴隷制度は自由制度にとって、世界で最も安全かつ安定した基礎であると我々は見ている。
我々のような制度がない世界の富裕で高度に文明的な国々では、自由制度を確立し維持するうえで非常な困難を生じている。しかし、その原因となる労働と資本の間に生じる抗争関係は、我々には到底、無縁である。南部の州は、実際のところ、個人の集まりではなく、小さな共同体の集まりである。農園は全て頭に主人を頂く小さな共同体であり、そこでは主人が労働と資本の一体利用に己れを集中し共同体を代表している。かかる小共同体が集まって州となし、その挙動、労働と資本は、同じく完全な調和のもとに運営され代表されている。従って、かかる調和と連帯と地域の安定性は、(連邦)政府の行動による以外、滅多に掻き乱されることはない。
また、このように偉大な保守の力によって祝福された状態は、南部の域外にも拡大されるのであり、その部分だけ、他の混乱に走る不幸な地域の広がりを抑止することに繋がる。このような制度を、人道を踏み外した狂人たちが天地を掻き乱して壊しにかかっている。我々は、愛国者かつ男子として最も高潔で真摯な義務を課せられ、この制度を守るべく求められている」
この演説から10年を経て、メキシコ戦争を経た第31議会では、彼は次のように演説する。
「連邦崩壊がただの一撃の力で起きると思うのは大きな間違いだ。州を連邦として束ねている紐の数は非常に多く、しかも強力だ。連邦崩壊には長い時間がかかる。紐がひとつひとつ弾けるように外れてゆき、やがて全部が音を立てて崩れるようなものだ。奴隷制をめぐって繰り広げられているアジテーションは、すでに重要な紐の幾つかを外してしまい、残り全部の紐も、かなり弱めてしまった。アジテーションが今のような状態で続くなら、紐はいずれ全部が外れてしまい、軍事力をもってする以外、州をまとめることはできなくなる。」
カルフーンが言う「アジテーション」とは、W.ロイド・ギャリソンやルイス・タッパン、アーサー・タッパンらが強力に推し進めている奴隷解放運動のことである。ギャリソンが過激な文言で奴隷解放を主張する会員誌「リベレイター(解放者)」を発行して間もなく、ヴァージニア州でナット・ターナーの乱という奴隷反乱事件が起きた。何十人かの奴隷が集まり、周辺の農園主らを斧・棍棒などで惨殺して回るという恐ろしい事件である。「リベレイター」誌の発行と反乱との間は何の関係もなかったが、南部農園主の多くが北部の解放思想家らは奴隷反乱をそそのかしていると受け取ったのである。
人間性と引き換えに奴隷制維持を主張するという点では、カルフーンは誰にも劣らない巨頭といえるが、そればかりではなく、彼は北部と南部の政治的バランスの変化を考えることのできた最初の人間ではなかったかと思われる。1837年、彼は次のように演説している。
「北部州の大部分は奴隷制度を悪とみなし、廃止しなければならないと考えている。現在の状態に歯止めがかからなければ、憎悪が拡大することは避けられず、やがて我々は2つの民族となってしまう。奴隷制廃止と合衆国は共存できない。」
カルフーンは、彼の弟子とでもいうべき奴隷制支持の思想家を生み出していく。ミシシッピ州の大農園主で軍人、のちに南部連合の大統領になるジェファーソン・ディビス、サウスカロライナ州の地元紙マーキュリーの運営責任者かつ編集者ロバート・B・レット、「文明の府は奴隷制という土の上に立つ家である」の発言で有名なサウスカロライナ州選出連邦上院議員ジェイムズ・H・ハモンド、140人の奴隷を抱えるヴァージニア州の農園主で、のちにサムター要塞砲撃の最初の砲火を放つエドモンド・ラフィンらである。
カルフーン以外の奴隷制支持思想家として、当時、リッチモンド市の大新聞エグザミナー紙の編集者として名を馳せたG・フィッツフューの文章を紹介したい。恐らく、彼の次の主張が、奴隷制擁護論に、ほぼ共通した考え方だからである。
「黒人は、子供がそのまま大きくなったようなものに過ぎないから、子供のように扱うべきであって、知恵遅れや犯罪者のように扱ってはならない。農園主は親か保護者のように彼らに支配力を行使するのである。
ただし、我々と考えを異にする人たちもいて、そのような黒人の道徳性や知性について高く評価している人々とは、この世の終末まで無駄に議論を重ねることになるかもしれない。黒人は、冬に備えて夏に蓄えることを知らず、老いに備えて若き日に蓄えることを知らず、その日暮らしをしている連中だ。社会にとっては耐え難いお荷物であるが、そうなってしまうことを防ぐための唯一つの方法は、彼らを家内奴隷にすることだ。
黒人は白人に劣っているから、同じ場所で住んでいる状況のもとで無秩序な自由競争となれば、彼らは白人に完全に差をつけられ、全てを奪われ、徐々にではあるが確実に滅んでしまうだろう。気が触れている奴隷解放主義者は、白人に比べ劣っている黒人の天分や金儲けの才覚を全く考えない。
この性格上の欠陥ひとつをとっても、彼らが南部にとどまるのであれば奴隷とするに十分である。アフリカか西インドであれば、彼らは偶像を崇拝する野蛮人か人食い人種になってしまうか、もしくは別の野蛮人か人食い人種に食われてしまうだろう。そして北部に行けば凍え死にするか、飢え死にすることになるだろう。」
西太平洋で奴隷貿易が盛んに行われている頃、ヨーロッパ人が奴隷貿易を正当化した最大の論拠は、野蛮人をキリスト教に改宗させている、というものだった。
アメリカで奴隷制が野放しにされ、それを擁護する論拠としては、黒人は劣等民族である、資本主義の競争に晒せば敗者になる、だから農園主が家父長的愛を持って生活を保障している、アフリカにいるよりはましな生活をさせている、という理屈が使われた。4.1850年の妥協
1848年の大統領選挙は、メキシコ戦争の雄・ザカリー・テイラーを担いだホイッグ党が勝利した。組閣から暫くして領土問題が浮上し、1849年の年末から翌1850の3月にかけて召集された第31議会は、ウィルモット修正条項をめぐって激論が戦わされる。その中で、カルフーンも肺結核を病み死亡してしまうのだが、彼は死の直前まで、新領土への奴隷制拡大を訴えていた。あまりに病状が進み、声が出せなくなっていたので、ヴァージニア州選出の上院議員J・メイソンに代読させている。
その逐一を詳述するのはわずらわしいので、大要を述べると、次のようなものだ。
「ウィルモット修正条項が実行されれば、合衆国が新しく得た土地の3/4が北部に取られる。北部15州に、オレゴンとミネソタが加わるよう既に画策され、これにカリフォルニアが加わる。ニューメキシコとユタまでが北部州となれば、北部は20州となり、北部の上院議員数は40人、南部上院議員数は14州で28人となる(ただし、デラウェア州は中立と考える)。こうして上院の多数が北部州出身者で占められ、北部と南部の力のバランスは崩れ、連邦共和国として始まった合衆国はロシアのような独裁国となり、政府の要職は北部人ばかりとなり、南部はその下で締め付けにあう。」
アメリカは人口の多い州と少ない州との発言力のバランスを図る目的で、下院の議員選挙区が人口で割り当てられるのに対し、上院は一つの州で2人が選出される制度になっている(この方式は現在なお踏襲されている)。
ミシシッピ河から西の広大な原野から、新たに州が誕生するたびに自由州すなわち前掲の奴隷法を認めない州が生まれ、北部系の議員が連邦上院を占めれば、合衆国全体が奴隷法を認めない国となり、奴隷禁止を南部に押し付けるようになっていくだろう、というのがカルフーンの主張である。
このような自由州か奴隷州かという対立の構図は、1850年が最初ではなかった。これより30年前に「ミズーリの妥協」というものがある。
ミシシッピ河から、現在のテキサス州の東境、ロッキー山脈に至る土地は、当初はフランスの植民地であり、ルイ14世にちなんでルイジアナと呼ばれた。その後、遠方の土地を治める困難を悟ったナポレオン・ボナパルトは、英国・ロシアとの戦争を控えて戦費調達のため、1803年にルイジアナを合衆国に売り、合衆国の領土は2倍になった。これをルイジアナ買収と呼ぶ。
このルイジアナ買収で得た土地のなかから、1820年にミズーリ准州を州に昇格させる際、下院はこぞって奴隷制禁止の票決をし、南部議員が占める上院は票決に反対しつづけるという状態が繰り返され、国論は二分した。
当時、マサチュセッツ州からメーン州を独立させる議題があがっていたので、北部系の議員は、メーン州を自由州とする代わりに、ミズーリのみは奴隷州としてよいが、残りのルイジアナ割譲地のうち、36度30分以北に奴隷州を作らないことで妥協を図った。
それから30年を経て、メキシコ戦争で得た土地のなかから、カリフォルニア、ニューメキシコ、ユタをどうするかという問題があがってきたのである。
この時、どれほど連邦が瓦解の危機に晒されていたかは、政権与党であるホイッグ党の重鎮ヘンリー・クレイ上院議員の2月5日から6日の演説に見ることができる。その一部は次のようなものだ。
「奴隷制がまだ存在しないところに、奴隷制を移植するということに、私は賛成できない。この世のいかなる力をもってしても、私をして、そんなことに賛成をさせることはできない。
それでも、ある線から北に奴隷制を阻もうという大多数の人々がいて、その線から南に奴隷制を認めようという大多数の人がいて、それぞれが最後まで妥協できないというならば、私は波風を立てようとは決して思わない。准州のいかなる場所にも、連邦議会が奴隷制に関して何ら法の力を及ぼさず、何らの決定もせず、白紙の状態にしておくことに、私は率先して賛成する。自らの判断や良心に反するけれども、そうしておく方が良いと思う。
この場を借りて言うが、私の考えでは、いかなる州も連邦から離脱することは許されない。連邦の瓦解と戦争は同じことであり、戦争は避けられない。
連邦からの離脱は、合意のもとか戦争によるかしか有り得ない。今の状況からすれば、誰も合意のもとでの離脱があるとは思っていないが、そうであれば戦争によるしか選択の余地がない。
仮に合意による分離があったとしても、奴隷保有州と奴隷非保有州との間で、60日以内に戦争が勃発するだろう。60日以内に、ケンタッキー州の奴隷たちは大挙して河を渡り、奴隷の所有者らは彼らを追いかける。そして、近隣する自由州に入った奴隷の持ち主らは追い返される。結果、60日以内に、今は平和で幸福なこの土地のあらゆる場所で戦争が始まるのである。
連邦はどういうふうに分離するのだろうか。私の考えでは、まず北部連合があり、奴隷を有する南大西洋奴隷州の連合があり、ミシシッピ渓谷の連合があるというところから始められるのだろう。ミシシッピ河沿いは、今でも流域に沿って人口が集中しているが、これからも益々集中していく。彼らは、河口を外国やいかなる勢力にも押えられることを座視してはいない。
連邦の瓦解によって始まる戦争。歴史の書物のどの頁を見ても、その暴力のすさまじさと流血の規模において、ギリシャの古代戦争も、イギリスの市民革命も、フランス革命も及ばない、そんな苛烈で容赦のない殲滅的な戦争があるだろうか。
紳士諸君、お願いする。崖のふちで止まってほしい。恐ろしい口を空けている谷底に飛び込んだなら、誰も生きて帰ってくることはないのだ。そして、大統領に最後に申し上げる。仮に連邦の瓦解があるのなら、そのような悲しむべき、心が痛む惨劇を生きて見るよりも、私は死んだ方がましだ。」
演説のなかに「ケンタッキー州の奴隷たちは大挙して河を渡る」とある。ケンタッキー州の北の境にオハイオ川が流れている。オハイオ川を渡ると、イリノイ、インディアナ、オハイオの自由州がある。秋になり作物が実る季節になると、道すがら、畑の食べ物を頼りに北部に逃れてくる奴隷が絶えなかったのである。
もう一人、ニューハンプシャー州とマサチュセッツ州の下院議員団を代表するホイッグ党の有力者ダニエル・ウェブスター(この当時は上院議員)の演説の一部を見てみよう。
「国の歳入その他について、北部が政府の運営において南部の優位に立ちつつあるというサウスカロライナ選出の議員(注:カルフーンのこと)の一般演説について立ち入るつもりはありません。しかし、自由州に逃げ込んだ奴隷を連れ戻すという憲法上の義務について、北部が熱心でないという南部の言い分について、私は北部が間違っており、南部が正しいものと判断します。
北部の公務員は連邦憲法を遵守すると宣誓をしており、連邦国家の条文に逃亡奴隷連れ戻しの条文がある以上、この条文も他の条文と同じく遵守することが名誉と自覚における義務であります。これを逃れ、弁解し、免れて公務員の義務は果たせません。ある州から別の州に逃げ込んだ奴隷は元の持ち主に連れ戻されるべきである、その意味するところは、連邦国家に忠誠を誓う州が、その公務員をして逃亡奴隷を連れ戻させる義務を負っていると私は考えます。」
北部に逃れてくる奴隷には、逃亡奴隷法が南部議員の圧力で施行され、下の奴隷所有者に返されるよう規定されていたが、ほとんど実効性がなかった。そこで、農園主が民間の奴隷逮捕人を雇って追いかけていたが、これに対し、奴隷を秘密裏に匿い、奴隷制度のないカナダに逃す「地下鉄道」運動というものがあった。その本拠はオハイオ州シンティナティ市にあったとされ、その「総裁」と謳われたクェーカー教徒レヴィ・コフィンをモデルに南部から逃れる奴隷を描いた小説が「アンクル・トムの小屋」である。
ウェブスターは、連邦崩壊の危機について次のように語っている。
「連邦からの分離!平和的な分離!誰も、そんな奇跡を見ることはないだろう。この広大な国土が動乱なしにバラバラになる!深い泉が、小波すら起さず分かれる!どこの馬鹿者―許されたい―が、そんなものがあると思うのだ。平和的分離など有り得ない。この国の偉大な憲法、我々がその下で生き、この国の全土を覆っている憲法が、日の光で解け消えてゆく山野の雪のように、誰も気がつかずに無くなってゆくことがあるだろうか。否、そんなことはないのだ。連邦の瓦解が何をもたらすか、それは私には天に陽を見るように明らかだ。言葉にするのもはばかられるような戦争をもたらすのだ。
どこで線を引くのだ?どの州が分離するのだ?アメリカはどこに残る?私は何者になるか?もはやアメリカ人ではないのか?共和国の旗はどこに立てる?鷲はもう胸を張るのをやめ、臆病風に吹かれて縮こまり、地に落ちるのか?自由州が集まって一つの政府を作り、奴隷州が集まってまた別の政府を作るなど、道徳的にありえない。」
与党ホィッグ党のなかで、最も強く奴隷制に反対する演説を行ったのは、ニューヨーク州知事を2回努め、この時は上院議員であったウィリアム・H・スワードである。
「奴隷制は、一時的なもの、偶発的で、部分的で、今の世にそぐわないものだ。それに対し、自由は永続的で基本的、普遍的、かつ合衆国憲法に合致したものだ。サウスカロライナ州から奴隷制を取り除いても、サウスカロライナ州は存立するが、同州から自由を奪えば、同州は存立しない。
国の領土は我々のものだ。それは勇敢な行動と国富によって得られた。しかし、新領土のうえに、我々は、絶対的権力を持っていない。合法的に得ようと、反逆によって得ようと、何ら絶対的権力を持っていない。憲法が、我々の統治のあり方を定めるのである。憲法が領土を連邦に加え、正義と防衛、福利と自由の下に置くのである。そして、我々の領土に対する権威を定め、これら崇高な目的の下に置く、憲法よりも高い法がある。准州の土地は、世の創造主によって与えられた人類共通の財産なのだ。
我々の先祖らに迷いはなかっただろう。奴隷制が現に存在していて、排除できなかったから残したまでのことだ。その頃は自由州も奴隷州もまだ明確な形ではなかった。建国の祖らも実効ある法制度をどうするかという問題を抱えていた。その後、オハイオ、ミシガン、イリノイ、ウィスコンシン、アイオワが加わり、彼らは、それら州から永遠に奴隷制度を排除したのだ。
英国、フランス、メキシコは奴隷制度を廃止し、それ以外の欧州各国もできるだけ早くなくすよう努めている。始めは13州のうち、12州が奴隷州だった。今は30州のうち、たった15州が奴隷州だ。
南部新共和国の企画者たちは、自分たちが考えていることが、いったい何のためなのだということを考え、答えを出さなければならない、兄弟相争う血みどろの悲劇、許されない不道徳が、いったい何のためなのか。不自然な革命が我々に何をもたらすのか。答えは、アフリカ奴隷の制度を守るためだけなのだ。
連邦の崩壊は恐ろしい問題をはらんでいる。連邦が維持されることにより、奴隷制が道徳的、社会的、政治的な平和的手段で、徐々に自発的に対価を払って取り除かれるのか、それとも、連邦が崩壊して内戦に突入し、暴力的手段で即時に完全に奴隷解放がなされるのかの問題だ。
諸君はコロンビア地区の奴隷解放に反対している。奴隷制維持か、さもなくば戦争だと。よろしい。宣戦布告をしてみたまえ。我が首都の奴隷制はすぐさま消滅し、その布告の邪魔だてをするものは何もないから。」
スワードは、この「憲法よりも高い法」で解放主義者らの支持を得、後年、リンカン内閣で国務長官を務める。一方、分裂を恐れて南部と妥協し、逃亡奴隷法の強化を認めてしまったウェブスターは、北部議員らの支持を失ってしまう。
メキシコ戦争の英雄で軍人出身の大統領ザカリー・テイラーは、ミシシッピ州で100人を超す奴隷農園の主であったが、当初、ホイッグ党の空気を察してカリフォルニア、ニューメキシコ、ユタの3州とも自由州で合衆国編入を認める発言をしていた。もしも連邦を脱退する州があれば、自ら軍を率いて征伐するとまで息巻いていた。
しかしながら、南部議員らの空気を察し、途中から妥協策を探るようになる。大統領としては、国家が分裂するかもしれない事態の収拾を図らねばならない。なにしろ、自分の義理の息子、ジェファーソン・ディビス上院議員(後年の南部連合大統領)がカルフーンの主張を支持する南部議員の先頭に立っていたのである。
「1850年の妥協」の産物を結果から言えば、1)カリフォルニアは自由州で合衆国に編入する、2)ニューメキシコとユタは、将来、住民選挙により州法に奴隷法を組み入れるかどうかを決する、3)コロンビア地区に奴隷の持ち込みは禁止する(奴隷制度の廃止ではないので、同地区の奴隷は自由人になれない)、4)逃亡奴隷法を強化する、5)ウィルモット修正案は廃案とする、ということになる。
かろうじて、南部議員と北部議員との間で妥協が成立し、連邦崩壊の危機は免れた。この時の南部議員の大半が、ウィルモット修正案に対抗して提案のあったアラバマ宣言に反対し、連邦の維持を優先させたためである。
しかし、逃亡奴隷法を強化して、北部の警察官に逃亡奴隷を逮捕する義務を課したことは北部の民衆を憤激させた。やがて、奴隷が留置・拘束されている警察署や裁判所を群集が襲う事件が頻発するようになる。5.結び
「1850年の妥協」に見られた南部と北部の政治的対立の構図は、この11年後に南部が連邦を離脱し、南北戦争が勃発するまで維持される。しかも、この対立は、南部奴隷制社会と合衆国憲法との間で深刻な溝を作っていた。
戦争を回避するなら、政治的対立になる前に、奴隷解放が市民運動の段階で留まり、あるいは、奴隷制維持が堅固なまでに主張されないところで終わらなければならなかった。その意味で、既に、この年には戦争は不可避になっていたと言っていい。
A・リンカンが大統領に当選し、南部各州が連邦離脱を決意した1860年の10月11日、前出のJ・カルフーンの思想的弟子ロバート・B・レットが主宰するチャールストン・マーキュリー紙に、次のような記事が掲載されている。
「南部州が、リンカンとハムリン両氏の連邦政府に膝を屈するなら、奴隷の価格が1人あたり100ドル低下するだろうことは想像に難くない。合衆国には430万人の奴隷がいる。ならば南部人にとっては、奴隷だけで4億3千万ドルの損失になるではないか。もちろん、奴隷の資産価値が下がれば、他のあらゆる不動産も同じようにそれだけ下がる。南部では奴隷の資産価値が、全ての資産の基礎になっている。それが破綻の危機に揺さぶられれば、他の資産も同様に不安定になる。銀行、株、国債も影響を受ける。腰抜けどもは奴隷を売って南部を出てゆくだろう。そして混乱と不信と圧政が支配する。」
南部430万人の奴隷は、市場で買われて資産として扱われている。北部の工業化に伴い、要らなくなったので南部に叩き売られてきた人々も少なくなかった。北部が奴隷制を悪であると言うが、それは奴隷が不必要になった北部の言うことで、南部の綿花栽培は事実上、奴隷制度によって成り立っている。単に道徳論、市民運動、議会演説ぐらいのことで奴隷問題は解決できなかった。
あえて南部の立場に立って代弁をするならば、資産である奴隷を誰が買い取って自由人にするつもりなのか、ということになるだろう。そして、北部人が奴隷制反対を叫び、悪であると主張しつづければ、サント・ドミンゴ島であったトゥーサン・ルベルテゥールの乱や、ヴァージニア州のナット・ターナーの乱のような奴隷反乱は避けがたく、南部人は身の安全の恐怖に震えおののくのである。
19世紀に入り、英国は突然、奴隷貿易を禁止し、海軍を使って奴隷船の取締りをするようになり、1834年には英領西インド諸島で70万人が自由民化するという時代を迎えていた。アメリカ南部の奴隷社会は、自由を求める黒人たちで爆発するかもしれなかった。
やがて、奴隷制に賛成か反対かという論争が、全ての政治的議題の中心になっていく。そして、奴隷制反対を党の綱領にする共和党から大統領が選出されたことにより、南部各州は連邦離脱を決意する。
それでも、チャールストン市の湾口に浮かぶサムター要塞に砲弾が打ち込まれ、南北戦争が開幕を告げるまで、まだ幾つかの重大事件を経なければならなかった。カンザス血の抗争、ジョン・ブラウンの乱、1860年の大統領選、アラバマ州モンゴメリー市での南部連合結成と新大統領選出が、その大きな山場といえる。
ここでいったん筆を置き、それらの話題は、後日の記述に譲ることとする。
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