概  要

ジョン・ブラウンの乱とは、南北戦争が開戦する約1年半前、熱狂的な奴隷解放主義者ジョン・ブラウンが、親族や支持者ら21人の部下と共に合衆国の兵器庫ハーパース・フェリーを襲撃した事件を言う。
 ブラウンの意図は、自ら持参したシャープス銃200丁・短銃200丁・長槍1,000丁とともに、兵器庫にある数万丁のライフル銃を強奪し、それらをマリーランド州の奴隷たちに配り、やがて襲い来るだろう州兵・連邦軍らと戦いつつ、奴隷解放の革命を起すことにあった。
 事件そのものは、武装したハーパース・フェリーの町民や周辺から駆けつけた州兵、連邦軍によって短時間で制圧されたが、ブラウンの乱は、それまでもっぱら政治の問題・言論の問題と思われていた奴隷解放の主張に、ついに武力闘争が持ち込まれたという意味で合衆国全土に激震を与えた。
 「北部の奴隷解放主義者らは、ついに奴隷が武器を持ち主人らを殺すよう煽動を始めた」と、南部の有力政治家や農園主らの多くは恐れおののいた。当時、南部の黒人奴隷の数は400万人、それを支配している白人農園主の数は約50万人。支配者にとって、自らに数倍する黒人奴隷が武装して革命を起すという未来図は、まさに悪夢であった。
一方、ブラウンが絞首刑台の露と消えると、北部のキリスト教会は一斉に鐘を鳴らし、ブラウンを奴隷解放の大義のために献身した現世のキリストであるかのように喧伝した。ハリアット・ビーチャーの著書「アンクル・トムの小屋」が世に出て7年、南部黒人の悲惨な生活は、小説という形を取って北部の民衆の間に広く浸透していた。
そして、ブラウンは、この頃、「カンザス血の抗争」において、奴隷解放主義の側に立って戦う人物として、世の中に知られている存在であった。
ジョン・ブラウンの乱は、北部と南部の対決の構図を深めたという意味で、南北戦争の開戦を早める効果をもたらした。
 


目       次


乱の参加者

 

ジョン・ブラウン
John Brown
(12月2日絞首刑)


「我、ジョン・ブラウンは強く確信する。この罪深き大地は流血をもってのみ、清め尽されるだろうことを。今までは血を流さずに済むかもしれないと我に言い聞かせてきたが、無駄であった
  一八五九年十二月二日、ヴァージニア州チャールスタウンにて」
(ブラウンが処刑場に向かう際、看守に手渡したメモ)


 

ジェレマイア・G・アンダーソン
Jeremiah G. Anderson
(現場で死亡)

オズボーン・P・アンダーソン
Osborn P. Anderson
(生還)

オリバー・ブラウン、写真右は妻マーサ
Oliver Brown
(現場で死亡)

オーエン・ブラウン
Owen Brown
(生還)

ワトソン・ブラウン
Watson Brown
(現場で死亡)

ジョン・E・クック
John E. Cook
(逃亡のち12月16日絞首刑)

ジョン・コープランド
John Copeland
(12月16日絞首刑)

バークレイ・コポック
Barclay Coppoc
(生還)

エドウィン・コポック
Edwin Coppoc
(12月16日絞首刑)

シールズ・グリーン
Shields Green
(12月16日絞首刑)

アルバート・ヘイズレット
Albert Hazlett
(逃亡のち60年3月16日絞首刑)

ジョン・H・ケイギ
John H. Kagi
(現場で死亡)

ルイス・S・リアリ
Lewis S. Leary
(現場で死亡)

ウィリアム・H・リーマン
William H. Leeman
(現場で死亡)

フランシス・J・メリアン
Francis J. Merian
(生還)

デンジャーフィールド・ニュウビイ
Dangerfield Newby
(現場で死亡)

アーロン・D・スティーブンス
Aaron D. Stevens
(60年3月16日絞首刑)

ステュアート・テイラー
Stewart Taylor
(現場で死亡)

ドーフィン・トンプソン
Dauphin Thompson
(現場で死亡)

ウィリアム・トンプソン
William Thompson
(現場で死亡)

チャールス・P・ティッド
Charles P. Tidd
(生還)





位置図


ジョンブラウンの乱関連年表

1854年〜58年
1854年5月 カンザス・ネブラスカ法案にF・ピアス大統領が署名。「カンザス血の抗争」の始まり。
1856年5月 カンザスにおける北部州の拠点ローレンス、ミズーリ州から越境してきた奴隷制支持派の民兵部隊に制圧される。 C・サムナー議員、「カンザスに対する犯罪」演説のなかで南部議員を「奴隷制という醜い売女に魅入られた貴族」という趣旨の発言し、 サウスカロライナ州選出議員から杖で気絶するまで殴打される。これに激怒したブラウン、オサワトミー村で3家族を襲い、奴隷制支持者5人を殺害。
1858年5月 ブラウン、カナダのオンタリオで新合衆国建国宣言。
1859年
7月 ブラウン、ハーパース・フェリーに到着。
9月 ブラウン一党、ケネディー農場で武器を集め襲撃訓練。
10月16日(日曜日)
【午後8時】 ブラウン一党、ケネディー農場を出発。
10月17日(月曜日)
【午前1時半】 B&O社の客車到来。荷物掛H・シェパード、制止を聞かず走って撃たれて死亡、ブラウンの乱の最初の犠牲者となる。同時刻頃、ブラウンの別働隊A・スティーブンスら5名、ワシントン大佐の屋敷に踏み込む。
【早朝】 J・スチュアート中尉、在アーリントンのロバート・E・リー大佐の邸宅を訪れ、国防省への出頭命令を伝達する。
【昼頃】 チャールスタウンから州兵・民兵の混成部隊が到着、ウェイジャーハウスを指揮所として銃撃開始。
【午後3時頃】 町長兼B&O社の駐在員F・ベッカム、E・コポックが放った銃弾により死亡、怒った町民が捕虜W・トンプソンをウェイジャーハウスから引きずり出し、橋上で撃ち殺して川へ放り込む。 B&O社員からなる民兵隊の一団が到着、町の西側を封鎖して射撃開始。休戦申し込みのため消防署から出たA・スティーブンス、撃たれてウェイジャーハウスに連行される。
【日没頃】 第4回目の休戦を申し込むが、ヴァージニア民兵隊のR・タイラー大佐に拒絶される。 消防署内の無傷の執銃者はJ・ブラウン、E・コポック、J・アンダーソン、D・トンプソン、S・グリーンの5名のみ(別の部署を守っていた数名は脱出成功)。
【午後11時頃】 J・スチュアート中尉とリー大佐率いる連邦軍90名、ハーパース・フェリーに入る。
10月18日(火曜日)
【午前7時】 ブラウン、降伏勧告を拒絶する。 イスラエル・グリーン中尉率いる連邦軍小部隊が消防署に突撃、ワシントン大佐ら人質を解放する。
その後(裁判から処刑まで)
10月26日 チャールスタウンで裁判審理始まる。ブラウン、「奴隷と共謀してのヴァージニア自治領に対する反逆および第一級殺人」の罪に問われる。
11月 2日 有罪判決の申し渡し。公開の絞首刑を宣告される。
12月 2日 ブラウン、絞首刑に処せられる。
12月16日 E・クック、J・コープランド、E・コポック、S・グリーン絞首刑。
1860年
3月16日 A・ヘイズレット、A・スティーブンス絞首刑。


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