部隊別行動(12月5日付き初稿)



12月13日未明の布陣

第7連隊 (7i/6B/9D) 金沢

13日 中山門の南の城壁を攻略し、城内の東南部に当たる飛行場、第一公園の近くを掃討し、第一公園の近くに宿営した。夜、第一、第二大隊は、翌日から担当する難民区を視察して、深夜に帰還。

14日 第一、第二大隊は難民区において敗残兵を掃討、夕方、第一公園の近くに帰還した。

15日 第一、第二大隊は前日に続き難民区において敗残兵を掃討。この日から難民区内に宿営する。

16日 前日、前々日に続き難民区内の敗残兵を掃討。14,15,16の三日間で敗残兵の掃討は終わり、計6,670人の敗残兵を摘発し、主に機関銃などで処分。

17日以降は組織的な敗残兵の掃討は行われず、第7連隊は12月24日前後に第16師団に任務を引継ぎ、25・26日、常熟へと南京を後にした。

第三大隊は難民区ではなく、その西北にあたる人口の疎らな地区の警備を担当した。

第9連隊 (9i/19B/16D) 京都

12月12日 中山陵を占領

12月13日 夜半 紫金山の山麓を西進し、13日は南麓に展開していた。夜半、東の山中から南京に向かってきた数百名の敗残兵をとらえる。 (再現南京戦 p.93)

12月14日 師団命令により城内には進入せず、紫金山一帯の敗残兵の掃蕩に任じ、15日に入城して国民政府跡付近に宿営した。

12月23日の配置換えにより、場内進入部隊(9Dその他)と交代して翌年1月20日頃まで城内外の警備を担当した。(証言による南京戦史(8))

- 所属兵の証言:六車政次郎少尉

第13連隊 (13i/11B/6D) 熊本

12日 雨花台→中華門を攻略

13日 敵の退却しつつあるを見、退却の余裕を与えるため一時入城を遅らせる。 入城に際しては、松井司令官の指示どおり一個大隊だけを入城させるが、同入城部隊も夕方には本体に合流して、中華門外の三里店付近にて宿営、その後は12月22日頃までに、南方の蕪湖に向けて出発した。

15日 蕪湖に向けて出発準備の命令。

16日 朝六時、蕪湖に向かって前進を始め、南京を離れた。(1937南京 p36, p338)

17日 21:00 太平府着

18日 17:00 蕪湖着

結論:この部隊が南京付近に駐留したのは僅かに10日間にすぎず、しかも主として城外に駐屯し、城内には僅かの部隊を掃討のため残したにすぎない。それも、市民も敵兵もいない地域であった。 (南京事件の核心 p46)

第19連隊 (19i/18B/16D) 敦賀

主たる攻撃目標 武定門

12月13日 歩兵第十九連隊は、光華門を占領した歩兵第三十六連隊を超越して城内に進入し、主として通済門西北側の城壁に沿う地区を掃蕩し、同地区の民家に宿営した。 土屋正治氏(歩一九第四中隊長)は次のように証言している。 「十三日、脇坂部隊を超越して、連隊の先陣として進入し、公園付近から大光路、白下路付近を掃蕩した。  城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。ただ無気味な静寂、異様な寂寞感がわれわれを包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。未だかつて味わったことのない、言葉では表せないこの静けさは、いつの間にか私を中隊の先頭に立たせていた。」(南京戦史 p.179)

湯水鎮に進出した上海派遣軍司令部が、13日午後1時過ぎ、敵の敗残兵が北側高地から襲撃、司令部護衛隊と交戦、西方に撃退した。光華門付近から歩十九の主力が「司令部危うし」と湯水鎮に到着した時は、敵は既に敗走していた。

12月14日 前日の残敵約五百が司令部東北側に在るを知り、歩十九主力を以て全く包囲投降せしめた。 (再現南京戦 pp.91-92)

第20連隊 (20i/19B/16D) 福知山

蒼波門→紫金山南麓の中央運動場(10日六時半)→西山(溝山)(11日夕)

13日 午後1時半 中山門に集結。     第4中隊が斥候に入る。市街戦はないとの報告あり。城外東方を掃討。     夕方、連隊の一部は城内に侵入、宿営した。残りは城外に駐留。

14日 付近を掃討したが、この付近は官庁街であり、皆、漢口に移転した後で、敵兵も住民もいないので、直ちに城外に移り、城外東方の敗残兵掃討にあたる。

20日、松井大将の命令で、更に東方の大華山方面の警備にあたり、そのまま南京に戻ることなく、1月22日、北支に転進した。 結論:わずか一昼夜ほど南京の無人地帯に宿営し掃討を担当しただけで、あとは城外の作戦に従事した。 但し、第一大隊だけは12月20日、南京城に呼び戻され、師団直属となる。

1月22日、北支に向けて転進

(南京事件の核心 p45)

第23連隊 (43i/36B/6D) 都城

坂本眤(ちかし)第二大隊長 南京戦史(6)

「十三日八時ころ行動開始、(中華門西側の)破壊口から城壁に登り、十時半ころまでには西南角付近に集結することができた(中略)。その後残敵を掃蕩するため、連隊主力は城壁に沿い、私の第二大隊はその東方の市街地を北方に沿って前進した。ちょうど十二時ころ道路の左側に飲食店が店を開いており、主人らしい一人の男がいたので支那ソバか何かを注文し、付近にいた者と一緒に、久し振りに珍しいご馳走に舌鼓を打った。銀貨で代金を払ったところ、主人は非常に喜んでいた。  小憩の後、尖兵中隊の第六中隊が清涼山(五台山ともいう)に達し、重砲六門を鹵獲した。命令により前進を中止し、(13日の)その夜は付近に宿営することになった。」 「南京事件の総括」p.36

坂本眤(ちかし)第二大隊長 南京戦史(6)

翌十四日は後退し、水西門の東側付近の城内に宿営した。そして翌年の一月三日蕪湖に出発するまで、そのまま駐留していた。 「仕組まれた南京大虐殺」p.212

第33連隊 (33i/30B/16D) 津/久居

仙鶴門鎮→紫金山・中山陵→太平門→和平門東方で38連隊主力と合流、13日の午後2時半に下関に至る。

13日 下関に城内を敗走した敗残兵がここにたくさんいたので、これを掃討したあと、城外の下関に宿営した。

14日 第一、第三大隊は下関周辺を掃討、第二大隊だけが選抜部隊として北門から入城した。中山北路、中山路をへて市政府に至り宿営した。しかし、担当した進入地域には敵兵も市民もほとんどいないので、下関に引き上げ、それ以降はこの付近の警備、及び一部城外東方の掃討に従事した。

20日、松井大将が南京警備体制を編成替え。第一、第二大隊は城内の南部地区を警備し、第三大隊は城外の南方を警備する配置に移動。 1月22日に南京を去って北支に転進。

第35連隊 (35i/6B/9D) 富山

12月13日 5時30分 中山門左側300m付近の破壊口に尖兵が突入、敵兵を刺殺、5時半頃、部隊は中山門左側破壊壁を登攀して占領。午前8時頃、入城した友軍とともに飛行場を占領、格納庫を本陣として付近の建物を逐一点検、クリークを渡った向こうの街まで掃蕩して13日の夜を迎え、敵の薪炭補給所に立て籠もる敵兵と交戦ののち、これを確保、10時過ぎに夕食をとって民家に宿営。

12月14日  前日に続いて城内掃蕩、14日の夕方から夜にかけて、掃蕩漏れの敗残兵が放火しだし、部隊は消火作業に追われた。やっと一息ついている所に「敵が薪炭補給所に放火」の報が入る。火の勢いが強く、消火作業ままならず全焼する。

南京事件の総括
ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神

【コメント】
「チャン本」のp115に「日本軍は街路(太平路?)を破壊し放火」があるが、この富山三五が見た「掃蕩漏れの敗残兵が放火」が、それであろう。してみると、この部分のラーベの記述もウソである。

第36連隊 (36i/18B/9D) 鯖江

13日 光華門攻略     入場してみると担当区域(光華門付近)に敵兵、市民ともにおらず、夕方から、城外の防空学校付近に集結して、宿営し、そのまま14日に南京を出発して、東方の嘉定に向かった。    脇坂連隊長、安全地帯の見学を断られる。 結論:この部隊は城内にすらいなかった。

第38連隊 (38i/30B/16D) 奈良

12月20日以降、安全地帯の警備を担当。12月末に安全地帯を去り、安全地帯に常駐する兵はゼロになる。1月22日に南京を去って北支に転進。

第45連隊 (45i/36B/6D) 鹿児島

12月13日 上河鎮の戦い

12月14日〜21日、宿営、休養

12月20日〜22日、中隊単位で蕪湖に向かう。

(再現南京戦 p149)

第47連隊 (47i/11B/6D) 大分

上記、第13連隊に同じ。

2日 雨花台→中華門を攻略

13日 敵の退却しつつあるを見、退却の余裕を与えるため一時入場を遅らせる。

入城に際しては、松井司令官の指示どおり一個大隊だけを入城させるが、同入城部隊も夕方には本体に合流して、中華門外の三里店付近にて宿営、その後は12月22日頃までに、南方の蕪湖に向けて出発した。

結論:この部隊が南京付近に駐留したのは僅かに10日間にすぎず、しかも主として城外に駐屯し、城内には僅かの部隊を掃討のため残したにすぎない。それも、市民も敵兵もいない地域であった。 (南京事件の核心 p46)

第65連隊 (65i/103B/13D) 会津若松

12月14日 幕府山占領 (再現南京戦 p154)

第66連隊 宇都宮

その他/備考

第16師団 1月22日、北支に転進。



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