南京事件についての意見交換会

 「南京戦の真実を追及する会」主催の「南京事件についての意見交換会」が6月2日に文京シビックセンターで開かれました。40人が参加し、2時から4時45分まで、中休みを挟んで2時間30分の間、さまざまな意見や思い、また疑問点が出され、それに対する答えも会場から出されました。

 意見を発表するだけの集まりというのは新しい試みでしたが、活気ある、そして実りのある集まりとなりました。たくさん出された意見、提案から一部を摘記します。


 

第九回講演会での鈴木史朗氏の講演主旨

 私は昭和十三年生まれで、父親が中国で仕事をすることになったため、一歳のとき中国に行き、北京と天津で昭和二十一年まで過ごしました。小学校二年生までの七年間です。北京では王府井という銀座のようなところに住み、天津では日本人租界に住んでいました。その頃の写真が残っていますが、中国人の楊車夫が私を楊車に乗せてくれた写真があります。また私には三歳と四歳下の妹がおり、中国人の子供と撮った写真もあります。妹たちは中国服を着ていますが、それは中国人の子供の親が作ってくれたものです。

 私が中国に行く二年前に南京戦がありましたが、そのとき虐殺が起きたとすれば、天津や北京でも知られていたはずです。中国人は怖がって日本人と行き来するようなことはなかったでしょう。しかし中国人が日本人を怖がるようなことはまったくありませんでした。天津で私は幼稚園に通っていまして、幼稚園まで歩いて十五分かかりますが、母親は何も心配していませんでした。

 日本では人を騙していけないということが常識ですが、中国では騙されるのが悪いのです。子供のころ中国人には用心しなさいと言われていました。そうですから、もし虐殺事件があったなら、私が誘拐され、殺されることは簡単に起きたでしょう。

 中国に移って数年して南京に行きました。南京にいたのは数日間だったのですが、そこでも私は中国人から可愛がられた記憶があります。素封家の家に行き、そのおばあちゃんに頬ずりされ、抱き上げられたことを覚えています。大虐殺があったなら、中国人が日本人の子供を可愛がることなどないでしょう。

日本の兵隊がたくさんいましたが、怖がる中国人はいません。日本の軍隊は規律が厳しく、中国人はそれを知っていたからです。怖いのは中国の軍隊で、略奪、強姦はよく見られます。虐殺をやるとしたら、それは中国兵です。

 東宝の記録映画「南京」というのがあります。撮影クルーは上海から南京に向かう日本軍を追って撮影しました。日本軍が南京を陥落させたのは昭和十二年十二月十三日ですが、撮影クルーも十四日には南京に入りました。そして翌年一月末まで南京で撮影しました。南京虐殺は南京陥落とともに起こり、一月下旬まで続いたといわれますが、撮影クルーはちょうどそのころ南京にいて南京を撮影していたわけです。

 「南京」に映しだされているのは、陥落して何日かすると続々戻ってくる南京市民の姿です。それからお菓子を日本の兵隊さんからもらっているシーンも映しだされています。南京市民は難民区と呼ばれた地域に集められましたが、その難民区も映しだされていています。南京の様子がよくわかります。この難民区に中国兵が軍服を脱いで入り込んだため、市民と兵隊をわけることになり、日本軍は一人一人調べて、市民と認めた人には安居証を渡します。日本が安全を心がけていたことがよくわかります。南京が陥落して二週間ほどで正月を迎えますが、中国のお祝いというと爆竹が有名です。正月になると中国の子供はこの爆竹を鳴らして楽しんでいます。大虐殺があったなら、このようなシーンはありえません。

 私はTBSで「ご長寿早押しクイズ」の司会をしていました。全国の老人で出ていただき、クイズに答えてもらう番組で、多くの老人と会いました。戦争に行った人が多く、戦争の話を聞きました。日本軍は規律が厳しかったということです。会津若松のご老人と話す機会がありましたが、南京では感謝され、戦後、中国人から南京に来るようにすすめられたと話していました。

私の体験からも、記録映画からも、南京大虐殺はまったくありえないことです。教科書が記述しているなら、教科書が間違っているのです。

→配布ビラの説明部分

 

第8回講演会(10月12日)「『南京事件』はこうしてつくられた - 日テレ『南京事件U』の歪曲の仕方」

第八回講演会・阿羅健一氏の講演要旨

  今年五月十四日に日本テレビが「南京事件U」を放映しました。三年前に放映された「南京事件」の続編で、前作に勝るとも劣らずウソに溢れた番組となり、番組を見た福田康夫元総理大臣は南京事件を事実だと確信し、南京虐殺記念館に行って献花までしてしまいました。
  前作は厳しい批判にさらされていたため、あらためて取り上げるほどでもないと考えましたが、CGを使った番組づくりは虐殺が本当に起きたかのような印象を視聴者に与え、私の周りでも衝撃を受けた人がいます。
  そこで、このままにしてはいけないと考え、間違いを指摘することにしました。一番よいのは、番組を見てもらったうえ、どこが間違っているか指摘することですが、日本テレビから映写は著作権に反すると抗議がありましたので、番組を見ていただくことは取りやめにし、重要な五場面だけを静止画像で見ていただいて説明することにします。
  番組の流れを簡単にいうとこうなります。
    @昭和二十年八月十五日に公文書が焼かれたため、南京戦の公文書はなくなった。しかし、一部が焼け残って防衛省に保存されていることが今回明るみになった。
    A公文書は焼かれたが、歩兵第六十五連隊(会津若松)の兵士の日記が残っており、一級資料は南京虐殺を証明している。
    B昭和十二年十二月十六日と十七日に起きた虐殺をCGで再現する。
    C二日間の出来事を自衛発砲だとして南京虐殺を否定する人がいるが、自衛発砲は両角連隊長が戦後になって言い出した言い訳である。
    D昭和三十七年に両角連隊長から取材した新聞記者も、両角連隊長は現場を見ていない、戦後に言い出したことだ、と証言した。

番組をザッと言えば、このような内容です。これらはすべて事実に反しており、
  まず、@ では、「南京攻略を命ず」という当時の命令書が写しだされ、今回明るみにされた、と説明されていますが、この命令書は昭和三十年代から活字にされています。これまで隠されていたわけでなく、また虐殺の命令書が焼却されたわけでもありません。日本テレビは簡単な事実も知らずに番組を制作しているのです。
  A で示された日記には虐殺したと書かれておりません。日記に記載されている出来事を兵士は戦闘と捉えており、淡々と記述しています。
  B では虐殺を再現していますが、そのなかの重要なコンクリートの壁に穴を開けて機関銃を据えた場面、後ろ向きに座らせて撃った場面、有刺鉄線で囲んだ中に中国兵を集めて撃った場面、銃撃のあとに銃剣を持った兵士が突撃した場面など、どれも一次資料になく、半世紀も経ってからの数人の証言で作ったものです。まったく事実に反しています。
  C の自衛発砲については、両角連隊長の昭和十二年十七日の日記にあるように、中国兵を中州に釈放しようとしたが、ちょっとしたことがきっかけで戦闘となったもので、日本軍は自衛のため発砲しました。自衛発砲説は当時からのものです。
  D に関して、新聞記者は昭和三十年代から両角連隊長は現場に行ったと書いており、また両角連隊長は戦前から解放を考えていたことをそのころから知っております。新聞記者はいまや八十四歳となり、それらを忘れてしまって日本テレビの質問に合わせたのでしょう。
  Bの基となった証言も八十代の証言ですからいかに当てにならないか改めてわかります。証言が当てにならないことを日本テレビが証明してみせました。
  このように「南京事件U」は捏造と歪曲だらけで、一次資料が大切だと言いながら、資料として価値のない証言で番組の核となるCGを作っています。
  日本テレビは前作から事実を歪曲しており、さらに今回歪曲しています。日本テレビのなかに歪曲を正す力がないのですから、われわれが声を上げなければなりません。


第7回講演会(9月19日)「外務省目覚めよ!南京事件はなかった」講演要旨

杉田水脈議員の講演要約

  南京虐殺記念日制定の動きが世界中で起きています。特にカナダでの動きは注目すべきで、その動きについてお話しします。
  私が落選中のことですが、カナダのオンタリオ州議会で中華系カナダ人が提案して十二月十三日を南京虐殺記念日にしようという動きが起きました。ホロコーストは世界中が知っているが、南京事件は誰も知らない、もっと学ばなければならないというのです。私は反対運動に協力するため署名しようとしましたが、カナダ在住でなければ署名できませんでした。
  このとき私の手元に「南京の実相」という本がありました。中川昭一先生や安倍晋三先生、中山成彬先生たちが研究したもので、英文もつけられています。すでにこういう立派な本が国会議員によって編纂されていました。
  オンタリオ州での提案は却下されましたが、今年六月にトロント市で記念碑を建てようという動きがあると中華系の新聞に報じられました。外務省に問い合わせると、外務省は詳しく把握していました。中心になっているのは中国系の団体で、トロント華人商工団体連合商会とカナダ中国トロント支部という二つです。前者は千九百八十五年という比較的最近に設立された団体です。二人の中心人物がおり、一人は二千年に移住、もう一人は千九百九十七年に移住しています。二人とも中国共産党の教育を受けた人たちで、カナダに移住してまだ浅いのですが、このような運動を進めています。二人とも李克強首相がカナダに来たときに華人の代表として会っています。
  もう一つの中国トロント支部は千八百九十四年に設立された古い団体です。中国で食えなくなった移民たちによる団体で、もともと反中国でしたが、中国経済の調子がいいので、中国寄りになり、中国と関わっています。
  韓国系アメリカ人はアメリカで慰安婦像を建てていますが、バックに抗日連合という中国系アメリカ人の組織があります。そのカナダ支部がアルファといい、カナダでの記念碑の建設も彼らが協力し、これまでの経験から碑を私有地に建てようとしています。
  バンクーバーやトロントにいる日本人のなかには中国系の動きに協力している人がいます。彼らは反日家で、彼ら見れば私が歴史修正守護者で日本を貶めている反日家なのです。
  またバンクーバーやトロントには日系人による九条の会があります。先ほどのアルファと九条の会が一緒になってやっています。九条の会には二人の活動家がいて、一人は女性で、高校に入り込んで反日教育をしており、もう一人は男性で、沖縄の基地反対運動の上映会などを行っています。
  カナダに移住した日本人は戦争中に財産を没収され収容所に入れられました。ドイツ人がそんなことをされることはなく日本人だけされました。戦後解放されたとはいえ、一からやりなおさなければなりませんでした。彼らのなかに日本がひどいことをしたからこうなったんだと信じ込んでいる人がいます。記念碑建設の運動に加担しています。日本から見て複雑な問題です。
  私は外務省に注文をつけるのですが、外務省も水面下で動いています。
  カナダでの動きを見ましても、日本人の九条の会は強い。日本人が解決するという気持ちを持たなければならないと思います。

中山成彬議員の講演要旨

  私の家は代々宮崎県の農家で、曾祖父は西南の役を西郷軍側として戦い、祖父は徴兵されて第六師団の兵士として日露戦争を戦い、父も徴兵され、同じ第六師団で兵隊の教育係をして曹長まで務めました。ノモンハン事件が起きたとき、父は出征できると喜んだのですが、教育係を命ぜられ、行くことはできませんでした。日本軍の軍律が厳しかったことをよく聞きました。
  「冬の夜」という文部省唱歌があります。皆さんも知っていると思いますが、二番は「囲炉裏の端に 縄なう父は 過ぎしいくさの 手柄を語る 居並ぶ子供は ねむさ忘れて 耳を傾け こぶしを握る」とあります。この唱歌を私は小さいとき覚えました。
  戦後になってこの歌詞が「昔の思い出語る」に変えられてしまいました。そうなるとそのあとの「こぶしを握る」が何故そうなのかわからなくなります。戦後いろいろと変えられてしまいました。
  アメリカには負けたが中国戦線では勝っていたと私は聞かされました。中学校のとき日教組の影響を受けた社会科の先生の話が違っていましたので、職員室に行って違いますと言ったことがあります。
  平成九年に中川昭一先生が娘の教科書を見てびっくりし、なんとかしなければならないと「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が発足しました。平成十八年に安倍内閣ができましたので、安倍さんが官邸でやってくれることを期待しました。そのとき下村博文官房副長官が、党のほうでやってくれというので、「若手」という名を取って私が会長とし進めることにしました。まず西川京子議員、戸井田徹議員とともに南京事件の勉強を行いました。毎週講師を招いて勉強しましたが、そのなかで一番印象的だったのは、藤岡信勝教授による「レイプ・オブ・南京」で使われている写真はすべて捏造だという話でした。
  そういった勉強会を行い、南京であったことは通常の戦闘であり、それ以上のものでも、それ以下でもない、という結論を得ました。南京事件がなかったことははっきり言わなければならないと考え、「南京の実相」という一冊の本にまとめました。
  海外にも訴えなければならないと英訳をつけ、そのうちの数百部をアメリカ議会などに送りました。記者会見を行いましたが、残念なことにマスメディアで取り上げたのは産経新聞だけでした。
  韓国の女性を慰安婦にしたとか、虐殺をやったといいますが、日本人は心やさしく、とてもそんなことはできません。また軍隊の軍律は厳しく、それは遅れて先進国の仲間入りを果たそうとしましたから、日本も先進国と同じことができるんだということを見せようとしたためです。また大正時代は甲種合格することが大変で、入隊するときは祝ってもらいましたから、軍紀は厳しかったのだと考えます。
  中国は抗日反日映画を毎日流し、日本兵の残虐非道が描かれています。私がいま心配しているのは、そのように育てられた中国人によってわれわれの子孫が仕返しされないかということです。日本に来た中国人は日本人が残虐非道でないことがわかるでしょうが、中にはそうでない中国人もいるでしょう。杞憂であればよいのですが。外務省は事なかれ主義で、謝れば解決するだろうと考えてしまいますが、われわれの世代でそれをやめさせなければなりません。

原田義昭議員の講演要旨

日本は国際社会のなかでどう進むべきかという問題を私は党のほうでやってきて、いまは外交調査会の幹事長を務めています。
  去年の一月のことですが、カナダのオンタリオ州議会で十二月十三日を南京虐殺記念日にしようという動きが起きているという情報を得ました。記念日の条例を制定しようというもので、とんでもないことですからさっそく外務省を呼んで対応すべきだ注文をつけました。しかし日本がカナダの州のことにいちいち口出しするのはどうかと考え、二十人ほどの議員が反対を声明して送ることにしました。
  七月になると動きが急になったため、オンタリオ州に行くことにしました。カナダに行くのは初めてで、行ってみると中国系や韓国系などのアジア系が五割ほど占めており、彼らは制定のための運動を一生懸命やっています。法案を通すため二千人規模のデモが議事堂の前で行い、また二千万円、三千万円の募金を集めています。それに対して日系で頑張っている人は十数人です。日本の総領事館が応対しましたが、これは勝てないなと思いました。
  このとき法案は廃案となったのですが、そのあと動議がスッと通りました。動議は拘束力がなく、外務省は動議ですんだからいいと言いますが、彼らのしぶとさから言うと、これで終わらないと思いました。
  その後、制定を中心になって進めている議員が落選しましたが、今度はモントリオール州の下院議員がもっと激しい運動を始めました。
  これに対しては、やはり日本が国として援助して、そのうえでカナダに住んでいる日系人に頑張ってもらわなければならないと考えます。「南京事件はなかった」ということは百パーセント正しいのですが、努力したほうがむくわれます。中国系は運動することによって虐殺記念日が実現するので、日本も反対のため頑張らなければなりません。
  日本の外交はまずく、中国系は頑張っていますので、松尾一郎君という民間の熱心な研究家に私も支援してカナダに行ってもらいました。
  中国は宣伝戦にすぐれています。宣伝戦の第一は大衆戦、第二は心理戦、第三は法律戦です。特に重要なのは法律戦で、法律に書くことにより永遠に残ります。カナダでも条例や法律にするという形に残すことをやっています。南京虐殺の像をつくる動きが行われていますが、これも同じです。
  カナダとともにもう一つ問題なのがユネスコの世界記憶遺産で、三年前に南京事件が登録されました。ユネスコの事務局がちょこちょこやって決まってしまいましたが、これも法律戦であり、私どもは大反対しましたが登録されてしまいました。
  しかしこのことにより今まで闇に隠れていたユネスコというものがはっきりし、日本が問題にしたことによりユネスコの事務局が合理化されつつあります。
  登録されたとき私は外務省と話をして、南京事件がなかったというはっきりした証拠が出たら撤廃させる、という項目を書き込ませました。ですから登録の撤回まで持っていくことが重要で、登録されたままで終わりにしてはならず、国と外務省挙げてさらにやらなければならないと感じています。

第6回講演会(6月22日)原川貴郎氏の講演要旨

  産経新聞が「歴史戦」で南京事件を取りあげたとき、私も一員として関わりましたので、そのときの話をしたいと思います。

  南京の軍事法廷は六週間で三十万の虐殺があったとしていますが、人口の推移、証言、記録映画などにから、ありえないことがはっきりしています。今では、中国の宣伝だということがわかっています。

  南京虐殺祈念館の館長だった朱成山は、ティンパーリの「戦争とは何か」が初めて南京事件を書いた本だと言っています。「戦争とは何か」は世界各地で発売され、八十年以上も前ですが、今でもこの本を手に入れることができます。アメリカの古本サイトで探すと簡単に見つかり、私は一万五千円で求めました。

  ティンパーリは中国国民党宣伝部の顧問であることがわかっていましたが、顧問に就いたのは日本軍が南京を攻略する前か後かはっきりしていませんでした。中国の文献を調べているとアメリカの将校マックヒューのレポートというものが載っていて、そのコピーをコーネル大学の図書館から取り寄せてみると、昭和十二年十一月以前に中国からティンパーリに月額千ドル支払われたとあり、日本軍が南京を攻略する前からティンパーリは中国と関係ができていることがわかりました。中国にとって不利な資料ですが、中国の文献にはそのようなものも載っています。南京事件はティンパーリなどによって宣伝が行われたのです。

  平成二十八年暮れ、朱成山が日本に来て東京や名古屋などで講演しました。このとき朱成山は、南京の軍事法廷が三十万人の虐殺があったと判決しているので南京では三十万が虐殺された、と言っています。証拠があるかどうかはどうでもいいというのでしょう。

  日本人が南京事件はあったと思うようになったのは朝日新聞が「中国の旅」を連載してからです。昭和四十六年、花形記者といわれていた本多勝一が書き、これがきっかけで、それまで南京事件があったとする日本人はいませんでしたが、教科書にも載るようになりました。

  しかし「中国の旅」というものは、本多勝一が中国に行って二日間で四人に取材しただけです。中国での取材がどういうものかといえば、私はこういう経験をしました。平成二十年に四川省で大きい地震がありました。それから七年ほどして被災地を訪れましたが、記者団を連れていった中国のガイドが、さあここで話を聞きましょうと、我々を一人の男のところに連れていきました。すでに被災地は観光化されて、その男というのは被災者ですが、今はそこで働いて案内役をやっているのです。それが中国での取材というものです。地震とは違いますが、中国は農家を一か所に集めた新興住宅地を各地で作っており、そこを取材する機会もありましたが、このときも新興住宅地に移ってそこの宣伝をやっている男がわれわれのところに来ていろいろ新興住宅地の話をしました。当然のことですが、彼らは政府の批判を一切しません。こういった私の体験からしても中国人の証言というものがどういうものかわかります。

  本多記者が取材したのは四十五年ほど前のことで、朝日新聞以外にはビザが下りなかったり、取材そのものができなかったという文化大革命の時期ですから、私たち以上にお膳立てされたものです。

  日本兵が中国の母親から赤ん坊を取り上げ、地面に叩きつけたというような「中国の旅」の記述はすでに徹底的に批判されていますが、その批判に対して本多は、中国の主張を代弁しただけだから、中国に聞いてくれ、と言っています。産経新聞の「歴史戦」ではこのことについて朝日新聞に質問状を出しましたが、慰安婦と違って誤りを認めようとしません。

  平成十九年一月、中国の南京事件研究家が来日して講演を行いました。中国の研究家が言うのには、南京事件の研究が始まったのは1980年代で、南京事件はなかったという批判が日本で起こったので始まったと述べています。つまり「中国の旅」が連載されて、それに対して日本で批判が起こり、それから中国は南京事件に注目するようになったというわけです。1985年には南京虐殺記念館が造られています。

  こういうことを考えると、「中国の旅」はもっと追及されるべきだと思います。
 

第5回講演会 「完結『南京事件』」(4月12日 講師:水間政憲)要旨

  崇善堂という慈善団体が南京で十一万二千体を埋葬したという記録があります。このほか紅卍字会が四万三千体を埋葬したという埋葬記録もあり、東京裁判に提出されました。二つの埋葬記録を合わせますと十五万体となります。それを主な根拠として東京裁判の南京事件の判決は、埋葬記録のほかに証言も入れて二十万の虐殺があったとし、松井大将の判決では十万と言っています。

  1980年代、阿羅健一氏が崇善堂の埋葬記録を調査しました。三十年以上も前のことです。その結果、崇善堂の埋葬記録は全くの作り事であることが明らかとなりました。そのことを産経新聞の石川水穂記者がスクープし、昭和六十年八月十日付の産経新聞社会面で大きく取り上げました。

  十一万二千という数字は〇となりますから、東京裁判の言う南京事件は十万を割ることになり、松井大将の場合はマイナス一万ということになります。この段階で南京事件は完全に崩れました。

  一方、紅卍字会の埋葬記録は、分析しますと市民の死体は百数十体で、ほとんどが戦死体です。私が「完結『南京事件』」という本を出したのはこういうことからです。

  そのころ南京事件を研究していたのは阿羅健一氏、田中正明先生、板倉由明氏たちです。田中正明先生は松井石根大将の私設秘書をやった人で、田中正明先生の「南京事件の総括」と阿羅健一氏の「『南京事件』48人の証言」の二冊の本により南京事件は決着がつきました。

  南京事件の裁判がたくさんありますが、初めて裁判になったのは「郵便袋事件」です。「郵便袋事件」というのは、東史郎という兵隊が、分隊の人たちは中国人を郵便袋に入れ、手榴弾を結わえ、池に放り込んで虐殺した、と日記に書いた事件です。それに対して分隊長がそんなことはなかったと言って訴訟になりました。私もこの訴訟に協力し、学生に郵便袋に入ってもらおうとしましたが、郵便袋に入ることはできませんでした。郵便袋に入れたということは作り事だったわけです。訴訟は最高裁まで行って勝ちました。

  そのころ、漫画家の小林よしのりさんが南京事件に興味を持ち出しましたので、「『南京事件』48人の証言」と「南京事件の総括」を渡して、これを読めば南京事件の真実がわかりますと言い、「郵便袋事件」が審理されている法廷に一緒に行って傍聴しました。

  小林よしのりさんはそうやって南京事件を勉強し、「戦争論」を書きました。「戦争論」は百万部を超えるベストセラーとなりました。それまでの南京事件の本の売上げは一万か二万ですから、「戦争論」によって桁違いの人が南京事件の真実を知るようになりました。

  このあと南京事件を研究する人がたくさん出てきましたが、彼たちは決着がついてから研究を始めた人たちです。

  それとともに問題なのは、新しく南京事件を研究した人たちは崇善堂についてまったく触れていないことです。無視するのです。これは保守陣営の欠点です。
 


 

2月14日 マリノフ利江「カナダからの報告会」要旨

  カナダのオンタリオ州議会では平成二十八年十二月に南京虐殺記念日を制定する法案が審議された。このときは議決まで行かなかったが、翌年十月、拘束力を持たない個人動議が通り、十一月にはマニトバ州でも同様な動きが始まった。

  支那事変と関わりのないカナダで何故このようなことが? という疑問が湧くが、二月十四日、文京区民センターにおいて、カナダに平成十二年から住んでいるマリノフ利江さんの「カナダからの報告会」が行われ、詳細が明らかにされた。

  それによれば、平成九年のカナダ・アルファ創設が発端である。アルファとは、第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合の略で、アメリカにある世界抗日戦争史実維護連合会の下部組織である。香港生まれの中国系カナダ人が創設し、さっそく日本の暴虐をカナダの学校で教えるよう働きかけ始めた。平成十一年にはトロント・アルファ支部が創設され、ここの主要メンバーの一人にスー・ウオンがいた。スー・ウオンも香港生まれで、平成二十三年にオンタリオ州議会議員になると、南京虐殺記念日制定の中心となった。

  オンタリオ州は白人系が絶対多数を占め、州議会は反日でも親中でもないが、トロント・アルファは人道を前面に出して記念日の制定を狙った。

  それに対してマリノフ利江さんを中心とする日系人が反対の署名活動を始めた。そのような記念日の制定は州議会の決議に合わないという考えが議会の多数を占めたこともあり、賛成多数とならなかった。

  しかし問題点も浮きぼりとなった。オンタリオ州では中国系住民七十万人に対して日系人は四万人ということもあるが、マリノフさんと共に立ち上がったのはわずか数人である。マリノフさんが親しくしている議員は法案に反対したものの、アジア系集会に出席したので問いただしたところ、南京事件がどんなものか知らなかったという。

  また先頭に立って闘うべき領事館は、日系文化会館が窓口となったものの、かつて慰安婦問題で韓国系に負け、外務省が南京事件を認めていることもあり、正面から立ち向かおうとしなかった。マリノフさんは日本を専門とする大学教授を味方につけるような活動をしなければならなかった。

  それでも、二十九年二月に産経新聞が大きく報じ、六月に自民党の国際情勢検討委員会が州議会に抗議文を寄せ、七月には委員長の原田義昭議員がトロントまでやってきたことが励ましとなった。

  講演会の半分はマリノフさんと参加者の討論となったが、参加者は歴史問題に熱心な中国系と無関心な日系の違いを知った。中国政府のバックアップも考えられるアルファに対して、日系人は孤軍であり、余りにも脆弱すぎることも知った。参加者からは外務省の熱意のなさを批判する声が上がり、双方にとり刺激的な討論が繰り広げられた。これまでになかった講演会といえるだろう。 
 


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