第6回講演会(6月22日)原川貴郎氏の講演要旨

  産経新聞が「歴史戦」で南京事件を取りあげたとき、私も一員として関わりましたので、そのときの話をしたいと思います。

  南京の軍事法廷は六週間で三十万の虐殺があったとしていますが、人口の推移、証言、記録映画などにから、ありえないことがはっきりしています。今では、中国の宣伝だということがわかっています。

  南京虐殺祈念館の館長だった朱成山は、ティンパーリの「戦争とは何か」が初めて南京事件を書いた本だと言っています。「戦争とは何か」は世界各地で発売され、八十年以上も前ですが、今でもこの本を手に入れることができます。アメリカの古本サイトで探すと簡単に見つかり、私は一万五千円で求めました。

  ティンパーリは中国国民党宣伝部の顧問であることがわかっていましたが、顧問に就いたのは日本軍が南京を攻略する前か後かはっきりしていませんでした。中国の文献を調べているとアメリカの将校マックヒューのレポートというものが載っていて、そのコピーをコーネル大学の図書館から取り寄せてみると、昭和十二年十一月以前に中国からティンパーリに月額千ドル支払われたとあり、日本軍が南京を攻略する前からティンパーリは中国と関係ができていることがわかりました。中国にとって不利な資料ですが、中国の文献にはそのようなものも載っています。南京事件はティンパーリなどによって宣伝が行われたのです。

  平成二十八年暮れ、朱成山が日本に来て東京や名古屋などで講演しました。このとき朱成山は、南京の軍事法廷が三十万人の虐殺があったと判決しているので南京では三十万が虐殺された、と言っています。証拠があるかどうかはどうでもいいというのでしょう。

  日本人が南京事件はあったと思うようになったのは朝日新聞が「中国の旅」を連載してからです。昭和四十六年、花形記者といわれていた本多勝一が書き、これがきっかけで、それまで南京事件があったとする日本人はいませんでしたが、教科書にも載るようになりました。

  しかし「中国の旅」というものは、本多勝一が中国に行って二日間で四人に取材しただけです。中国での取材がどういうものかといえば、私はこういう経験をしました。平成二十年に四川省で大きい地震がありました。それから七年ほどして被災地を訪れましたが、記者団を連れていった中国のガイドが、さあここで話を聞きましょうと、我々を一人の男のところに連れていきました。すでに被災地は観光化されて、その男というのは被災者ですが、今はそこで働いて案内役をやっているのです。それが中国での取材というものです。地震とは違いますが、中国は農家を一か所に集めた新興住宅地を各地で作っており、そこを取材する機会もありましたが、このときも新興住宅地に移ってそこの宣伝をやっている男がわれわれのところに来ていろいろ新興住宅地の話をしました。当然のことですが、彼らは政府の批判を一切しません。こういった私の体験からしても中国人の証言というものがどういうものかわかります。

  本多記者が取材したのは四十五年ほど前のことで、朝日新聞以外にはビザが下りなかったり、取材そのものができなかったという文化大革命の時期ですから、私たち以上にお膳立てされたものです。

  日本兵が中国の母親から赤ん坊を取り上げ、地面に叩きつけたというような「中国の旅」の記述はすでに徹底的に批判されていますが、その批判に対して本多は、中国の主張を代弁しただけだから、中国に聞いてくれ、と言っています。産経新聞の「歴史戦」ではこのことについて朝日新聞に質問状を出しましたが、慰安婦と違って誤りを認めようとしません。

  平成十九年一月、中国の南京事件研究家が来日して講演を行いました。中国の研究家が言うのには、南京事件の研究が始まったのは1980年代で、南京事件はなかったという批判が日本で起こったので始まったと述べています。つまり「中国の旅」が連載されて、それに対して日本で批判が起こり、それから中国は南京事件に注目するようになったというわけです。1985年には南京虐殺記念館が造られています。

  こういうことを考えると、「中国の旅」はもっと追及されるべきだと思います。
 

第5回講演会 「完結『南京事件』」(4月12日 講師:水間政憲)要旨

  崇善堂という慈善団体が南京で十一万二千体を埋葬したという記録があります。このほか紅卍字会が四万三千体を埋葬したという埋葬記録もあり、東京裁判に提出されました。二つの埋葬記録を合わせますと十五万体となります。それを主な根拠として東京裁判の南京事件の判決は、埋葬記録のほかに証言も入れて二十万の虐殺があったとし、松井大将の判決では十万と言っています。

  1980年代、阿羅健一氏が崇善堂の埋葬記録を調査しました。三十年以上も前のことです。その結果、崇善堂の埋葬記録は全くの作り事であることが明らかとなりました。そのことを産経新聞の石川水穂記者がスクープし、昭和六十年八月十日付の産経新聞社会面で大きく取り上げました。

  十一万二千という数字は〇となりますから、東京裁判の言う南京事件は十万を割ることになり、松井大将の場合はマイナス一万ということになります。この段階で南京事件は完全に崩れました。

  一方、紅卍字会の埋葬記録は、分析しますと市民の死体は百数十体で、ほとんどが戦死体です。私が「完結『南京事件』」という本を出したのはこういうことからです。

  そのころ南京事件を研究していたのは阿羅健一氏、田中正明先生、板倉由明氏たちです。田中正明先生は松井石根大将の私設秘書をやった人で、田中正明先生の「南京事件の総括」と阿羅健一氏の「『南京事件』48人の証言」の二冊の本により南京事件は決着がつきました。

  南京事件の裁判がたくさんありますが、初めて裁判になったのは「郵便袋事件」です。「郵便袋事件」というのは、東史郎という兵隊が、分隊の人たちは中国人を郵便袋に入れ、手榴弾を結わえ、池に放り込んで虐殺した、と日記に書いた事件です。それに対して分隊長がそんなことはなかったと言って訴訟になりました。私もこの訴訟に協力し、学生に郵便袋に入ってもらおうとしましたが、郵便袋に入ることはできませんでした。郵便袋に入れたということは作り事だったわけです。訴訟は最高裁まで行って勝ちました。

  そのころ、漫画家の小林よしのりさんが南京事件に興味を持ち出しましたので、「『南京事件』48人の証言」と「南京事件の総括」を渡して、これを読めば南京事件の真実がわかりますと言い、「郵便袋事件」が審理されている法廷に一緒に行って傍聴しました。

  小林よしのりさんはそうやって南京事件を勉強し、「戦争論」を書きました。「戦争論」は百万部を超えるベストセラーとなりました。それまでの南京事件の本の売上げは一万か二万ですから、「戦争論」によって桁違いの人が南京事件の真実を知るようになりました。

  このあと南京事件を研究する人がたくさん出てきましたが、彼たちは決着がついてから研究を始めた人たちです。

  それとともに問題なのは、新しく南京事件を研究した人たちは崇善堂についてまったく触れていないことです。無視するのです。これは保守陣営の欠点です。
 


 

2月14日 マリノフ利江「カナダからの報告会」要旨

  カナダのオンタリオ州議会では平成二十八年十二月に南京虐殺記念日を制定する法案が審議された。このときは議決まで行かなかったが、翌年十月、拘束力を持たない個人動議が通り、十一月にはマニトバ州でも同様な動きが始まった。

  支那事変と関わりのないカナダで何故このようなことが? という疑問が湧くが、二月十四日、文京区民センターにおいて、カナダに平成十二年から住んでいるマリノフ利江さんの「カナダからの報告会」が行われ、詳細が明らかにされた。

  それによれば、平成九年のカナダ・アルファ創設が発端である。アルファとは、第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合の略で、アメリカにある世界抗日戦争史実維護連合会の下部組織である。香港生まれの中国系カナダ人が創設し、さっそく日本の暴虐をカナダの学校で教えるよう働きかけ始めた。平成十一年にはトロント・アルファ支部が創設され、ここの主要メンバーの一人にスー・ウオンがいた。スー・ウオンも香港生まれで、平成二十三年にオンタリオ州議会議員になると、南京虐殺記念日制定の中心となった。

  オンタリオ州は白人系が絶対多数を占め、州議会は反日でも親中でもないが、トロント・アルファは人道を前面に出して記念日の制定を狙った。

  それに対してマリノフ利江さんを中心とする日系人が反対の署名活動を始めた。そのような記念日の制定は州議会の決議に合わないという考えが議会の多数を占めたこともあり、賛成多数とならなかった。

  しかし問題点も浮きぼりとなった。オンタリオ州では中国系住民七十万人に対して日系人は四万人ということもあるが、マリノフさんと共に立ち上がったのはわずか数人である。マリノフさんが親しくしている議員は法案に反対したものの、アジア系集会に出席したので問いただしたところ、南京事件がどんなものか知らなかったという。

  また先頭に立って闘うべき領事館は、日系文化会館が窓口となったものの、かつて慰安婦問題で韓国系に負け、外務省が南京事件を認めていることもあり、正面から立ち向かおうとしなかった。マリノフさんは日本を専門とする大学教授を味方につけるような活動をしなければならなかった。

  それでも、二十九年二月に産経新聞が大きく報じ、六月に自民党の国際情勢検討委員会が州議会に抗議文を寄せ、七月には委員長の原田義昭議員がトロントまでやってきたことが励ましとなった。

  講演会の半分はマリノフさんと参加者の討論となったが、参加者は歴史問題に熱心な中国系と無関心な日系の違いを知った。中国政府のバックアップも考えられるアルファに対して、日系人は孤軍であり、余りにも脆弱すぎることも知った。参加者からは外務省の熱意のなさを批判する声が上がり、双方にとり刺激的な討論が繰り広げられた。これまでになかった講演会といえるだろう。 
 


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