支那人を銃剣の練習台に使う日本兵の写真(検証)


次の写真は、“Rape of Nanking” (by Iris Chang)に収録され使われています。「2本の棒に支えられている気の毒な人物」に向かって銃剣を刺突させている人物は、果たして、説明書きにあるように日本兵なのでしょうか。 (註:丸数字は便宜的に筆者が付けています。)

襟と肩章に注目して下さい。
 

次の写真は、南京占領中に撮影されたものです。撮影日は12月20日、朝日新聞の林特派員によって撮影され、「アサヒグラフ」の昭和13 (1938) 年1月19日号に掲載されています。

両方を見比べてみます。襟については、@は折り襟、Aは詰め襟です。 肩章は、@にはありませんが、Aにはあります。 肩章は背負った荷物の紐が肩からずり落ちないようにする実用上の目的もありますから、単なる飾りではありません。

もっとも、日本陸軍は昭和13 (1938) 年6月1日に軍服の仕様を変えているそうですが、 南京占領期間(昭和12年12月13日〜昭和13年2月半ば)は仕様変更前なので、同期間中に折り襟で肩章なしの軍服が登場することは有り得ません。


 

日本軍による南京の占領に伴って南京政府は武漢に拠点を移しているのですが、そこでは郭沫若・周仏海らによる宣伝部が結成され、映画の撮影所も備えていたことが判明しています(註)。 つまり、@のような写真は、戦争宣伝のために撮影所で幾らでも作れるのであり、且つまた、撮影者も撮影日も分からない写真をもって「日本兵の蛮行」と断定できるでしょうか。 例えニセ写真と断定するに至らないまでも、その疑いが甚だ濃厚と言わざるを得ません。

また、この写真は南京戦が始まる以前、既に1937年9月28日付けの「ザ・サン紙」ボルティモア版に掲載されていることが判明しています。 そのキャプションは「中国人女性を銃剣突撃の練習に使う日本兵 天津」となっていて、南京とは無関係の場所で撮影されたことになっています(下記写真をクリックして拡大)。 要するに、あらゆる場面で「使いまわし」されている写真、ということができます。


 

(註)「抗日戦回想録(郭沫若/著)」に、「政治部の第六処の下の第二科が映画を担当」 (p.55) し、 「映画製作所の数百人が漢口の楊森花園に駐在していた」(p.58)とある。


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