朝鮮人の民族性(本邦偉人編)


喪黒福造
更新日:令和3年3月14日



恵美朝狩
(奈良平城京時代の朝廷に使えた公家。藤原仲麻呂の四男、従四位下、陸奥鎮守府将軍。藤原朝狩とも称す。)


天平宝字四年(760年)

恵美朝狩、新羅の使者が貢物を献ぜんことを乞うたところ、新羅が使者小野田守に対して無礼であったことを責め、 「汝の国は礼をわきまえぬ不信義の国である。王子すらウソを言う。汝ごとき軽輩の言うところを信ずることができようか。忠信を重んじ、礼儀完備の国となってから、出直して来い」と叱咤して追い返した。 (出典:海音寺潮五郎 悪人列伝 古代篇 弓削道鏡 p98)

参考出典:「続日本紀 天平宝字四年九月」の条
続日本紀 巻第廿三〈起天平宝字四年七月、尽五年十二月〉



新井白石
(朝鮮通信使の簡素化を断行した江戸時代中期の旗本。将軍侍講。推定される執筆時期:1710年代)


「それ朝鮮は狡猾にして偽り多し。利のある所、信義を省みず。 蓋し、穢貉(薄汚いむじな)の俗、 天性にして固然なり」

(出典:国書復号紀事
新井白石全集第四巻所収 p702)


佐田白茅(さた・はくぼう)

1870年の征韓論:三十大隊の武力をもって圧伏しなければ埒が明かない

明治初期の外務省員。幕藩体制下で朝鮮との外交を対馬藩に委嘱していたのを、 明治新政府が外務省の所管に移したことを李氏朝鮮に説明するが、 日本からの国書への回答に要領を得ないことに業を煮やして帰国、 建白書を提出して「三十大隊の武力を用いて迫らなければ埒が明かない」 と主張する。この主張は「征韓論」の嚆矢とされる。


一八七〇年(明治三年)に提出された「建白書」にいう。

「朝鮮、己を知りて彼を知らず。其人深沈狡獰(こうどう)、固陋、傲頑、之を覚(さと)して覚らず、之を激して激せず。故に断然兵力を以てのぞまざれば、我用を為さざる也」 (朝鮮人は自己中心主義で自国の事情ばかり述べて他国の都合には無頓着である。ズルくて性悪なことはこの上もなく、頑迷固陋で傲慢であり、諄々と理を説いても、いっこうに悟ろうとしない。やたらに感情的に激したかと思うと、またケロリとしている。よって、武力を以て圧伏しなければ、局面の打開はできない。)

(出典:「征韓論の旧夢談」(四二〜四三頁)
国立国会図書館デジタルコレクション


福沢諭吉


    「脱亜論」

    我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり。一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。

    例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科挙の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩(おほ)はれ、朝鮮国に人を刑するの残酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計るれば枚挙に遑あらず

    今日の謀りを為すに、我が国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人の之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。(「時事新報」 1885年3月16日)



本田宗一郎


  昔、本田宗一郎さんが私の家に来て食事をごいっしょしたことがありました。そのとき、「本田さんのところでは外国に何軒、工場がありますか?」と尋ねたら、「三五軒」とおっしゃったように記憶しています。そして、「その中で、一番うまくいっているところはどこですか?」と尋ねますと、「台湾」とお答えになり、「台湾に行くと、台湾の人がみんな、私に『こうやって自分たちが仕事をやれるのは、本田さんのお蔭です』と言って、ものすごく丁重に扱うのです。ですから、胸に一物もっていても言い出せない」とおっしゃいました。この本田さんの言葉は、日本と台湾の関係を象徴しているように思います。

  ちなみに、一番具合の悪かったところはどこですかと、本田さんに尋ねましたら、「韓国」とおっしゃった。
  「どうしてですか?」と尋ねると、「向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、カネを返してもらった。その翌日に朴正煕が殺されたんだ」とおっしゃった。

  同じ日本の旧植民地だったところですけれども、日本人と肌が合うところと合わないところとあるようです。

  (出典:「アジア共円圏の時代」渡辺昇一・邱永漢/共著 PHP研究所 1994年 pp. 86-87)




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